くり返しあなたに壊れてゆく雪の壊れる速度それぞれにあり

大平千賀「えのころぐさ」(「歌壇」2018年1月号)

 


 

雪が「あなた」の体にあたってばらばらとくずれるのが見える。それを見つづけていると、いくつもいくつもあたってくずれる雪の、そのくずれる速度に違いがあることも見えてくる。

 

あたる速度ではない。あたってから、そのあとの速度だ。

 

まず「壊れる」という語にぎょっとする。初句から順に読んで「あなたに壊れてゆく」というのでもう、不穏な感じがする。自分の心情か何かが壊れていくのだろうか、と思う。でも、あなた「に」壊れる、という言い方がよくわからない。散文ではあまり見られない、短詩型ならではの「に」のあらわれ方だと思う。その「に」に違和感をもったまま、それでも先へ読んでいくと、だんだんとわかってくる。そして最後まで読んで、もう一度初句に返って読んだ頃にようやく僕は、雪があなたにあたってくずれているのを「あなたに壊れる」と言っているのだとわかった。「くり返し」「それぞれに」とあるから、雪は一片ではない。そして、雪が壊れる、というくらいなのだから大粒の雪なのだろうと想像した。

 

と、いちいち立ち止まって映像化しながら読んでいるうちにも、たくさんの雪があなたにどんどんぶつかっていく。そして、雪の形や質感ではなく、雪のそれぞれの「壊れる速度」のみをしずかに見つめる人物が見えてくる。

 

この人はあなたを見ているのではない。この人は幾片もの雪の、その「壊れる速度」だけを見ている。「あなた」という存在を登場させ、「壊れる」という不穏ささえ感じさせる強い語を歌に配しているにもかかわらず、結局意識が向かっているのは、雪が「壊れる速度」、そしてその「壊れる速度」の一片ごとの違いである。

 

ふつうならここで、あなたへの思いやあなたとの関係性、あるいはあなたからこの人への思いが見えてくるのだと思うが、僕にはそれがいまいち見えてこない。視線が、降ってきてはつぎつぎにくずれる、雪の動きのほうに注がれているのだ。だから僕は読者として、その関係性には余計な口を挟めない。あなたとの関係に不安があるのですね、とか、あなたのたしかな存在感に信頼を得ているのですね、とか、そういったことを言えない。雪のいかにも冷たい感じと、「壊れる」という語の堅い感じや不穏さを、この人の心情に重ねて読もうとするのだが、僕にはそれがうまくできない。あなたに対して狂おしいような強い感情を抱いているのですね、などと言いたいのに、言えない。雪とそのくずれる速度は見えるのに、あなたが見えない。あなたとの関係性が見えない。

 

いや、もちろん、余計な口を挟みながら読むべきなのかもしれない。読めるような気もする。けれども僕にはそれができない。「くり返し」「それぞれに」と言って雪へのこまやかな観察のほうへ意識を向けている感じが、あなたと、あなたとの関係性を、背景に押し込んでしまっている感じがする。

 

・酢漿草(かたばみ)の実に手を伸ばすこの人が夫だわたしの影を重ねる

※( )内はルビ

 

同じ作者の「花火、枯れ草」(「短歌往来」2017年8月号)という一連から引いた。「この人が夫だ」と確認しながら、そこに影を重ねるとは、どのような意味をもった行為なのだろう。自分の負の部分を預けようというのか。相手を支配するような気持ちがあるのか。それとも、相手に直接には負荷をかけずそっと寄り添うようにしていたい、共にいたい、ということだろうか。酢漿草の実や、そこに伸ばされる手の存在感はあるのに、「わたし」の心情は見えにくい。

 

これらの歌からは、人との関係性を表現するのに、どこか慎重な態度で言葉を選んでいる人物が見えてくる気がする。歌が読者に伝えてくる具体的な景そのものはわりとはっきりしているのに、そして言葉の上では「あなた」や「夫」がちゃんとあらわれているのに、その相手への心情が見えにくい。だから、関係性も見えにくい。もちろん、夫婦、という枠組みはわかる。でも、その質が見えにくいのだ。

 

関係性のありようを決めつけない歌、と言えばよいだろうか。なんらかの強弱を伴った関係性が存在するということははっきりとわかる。けれども、その関係性の質が、いまいち見えてこない。言葉の輪郭は濃いのに、それが関係性を説明しようとしない。

 

でもそれは、単に、人との関係性が淡いとか、他者の領域に踏み込まないで外から眺めているとか、〈現代的〉な優しさがあるとか、そういった類いのものとはだいぶ違う感じがする。そうでなければ「壊れる」という強い語や「影を重ねる」といった能動性はあらわれないと思うのだ。