ともだちのこどもがそこにゐるときはさはつてもいいともだちのおなか

本多真弓『猫は踏まずに』(六花書林:2017年)


 

わたしは弟妹の多い長女なのだけど、長女的な屈託というものは汎用性が高いのか、わたしが知るかぎり長女同士は連帯しやすい。「わたしは長女です」「わたしもです」と名乗りあうだけですべてが通じてお互いのことが深く理解できる(ような気がする)。「わたしもです」のあとには「だと思った」がつづく。次女界や中間子界や一人っ子界ではそこまでの交流は行われていないようにみえるのはわたしが単にそこには属してないからかもしれないけれど、長女界の連帯のつよさはよそからみればさぞ感じが悪いだろうとも思う。
作者が実際に長女なのかどうかは知らないものの、本多真弓第一歌集『猫は踏まずに』はとても長女感にあふれる歌集だったので、長女たるわたしはあちこちで「わかるよ」と手をつないでいるような気持ちにもなり、だけど長女にかぎらずどんな属性でもそうであるように、本人が自覚的になりすぎることで生じる灰汁のようなものも感じざるを得ない歌集でもあった。前半にとくにはっきり頻出する「長女」というキーワードの入った歌の自己言及性だけでなく、文体が「責任感を仕舞ひこ」んでいる「重さ」の功罪は問われるべきだろう(※長女つていつも鞄が重いのよ責任感を仕舞ひこむから/同歌集より)。
掲出歌にわたしが虚を衝かれたのは、そのような歌集のなかであまりに無防備な一首にみえた、という理由は大きい。「長女」性が剥がれているどころか、そのほかの何者でもない白紙の瞬間がここにある。
妊娠中にかぎり「ともだちのおなか」に堂々と触ってもいいということの不思議さ、そこにはもちろん「ともだち」の身体が「母」という意味に奪われたときに公共物のようなニュアンスを帯びることへの苦みが含まれるだろうけど、それとともに、「ときはさはつてもいい」というおずおずとした言い方には、それ以外のときになぜともだちのおなかには触ってはいけないのだろう、という素朴な戸惑いも表れているように思える。「ともだち」に「こども」が足されたことによる関係性の変化が、「こども」が足される前の「今まで」のことまでとつぜん不安定なものにみせる。その不可逆性によって、自分という存在までまとめて問い直されているようなぐらつきにこの歌のつよさがある。属性の不確かさという意味では随一のモチーフになり得る胎児という存在が目の前にいるのに大人二人の関係性に終始する潔さにも生々しい説得力がある。
掲出歌が冒頭に置かれた連作は、その後ふたたび「長女として」及び「書き手として」の二重の「責任感」を感じさせる展開に塗り替えられていくけれど、それでも連作はこの歌という急所を忘れないだろうと思う。ちょっと長くなりすぎたね。挙げた歌の話だけするように気をつけます。