平岡直子


レスラーはシャツを破りて瞳孔をひらいてみせる夏の終わりに

内山晶太『窓、その他』(六花書林:2012年)


 

内山晶太の歌集名に「窓」がつくのはよくわかる。つねに窓の近くで歌が作られている感じがするからだ。それは具体的な建物の窓でもあるけれど(実際に歌集中に「窓」という名詞はかなり多い)、個人の内面の複雑さと世界の複雑さを別の種類のものとして扱う分別を保ちつつ、その二つの交流ポイントとして想定されている架空の窓のようなものでもある。「その他」はよくわからない。
窓という比喩を基準にむりやり歌集中の歌を大別すると、①自分の窓から外を眺めている歌、②他人の窓を外から覗いている歌、③自分の窓を外から覗いている歌、の三種類ということになる。わたしが個人的に心惹かれるのは③の歌に多く、〈人生のからくりふかきところにて蜘蛛からみあうごとき繊細〉や〈一年を振り返りやがて口腔にひろがる路地を眺めていたり〉など、初期の岡井隆か内山晶太か、というくらい不可視な空間の膨らませ方が上手い。
でも歌としてのレア度でいうと②がいちばん稀少なのでは? とこの頃思えてきたので、今日の歌は②から。②の性質はたとえば〈夜、マクドナルドの窓に母子(ははこ)あり極彩色の日々のさなかを〉というような歌にわかりやすいと思うけれど、掲出歌の、シャツからおそらく剥きだしにされた胸や、瞳も人体の「窓」のようなものだ。
この歌に表れているのはとにかく力、それも肉体の力である。そして、それだけだ。「シャツを破りて」のシャツの持ち主は対戦相手などではなく、肉体を誇示するために自分の着ているシャツを破っている、と取ったのだけど、仮に他人のシャツだったとしても腕力の誇示として読めばそれほどはぶれないかもしれない。「瞳孔をひら」くのは意味的には「目をみひらく」とほとんど同じだと思うけれど、ここのわずかな細かさによってレスラーの野生動物っぽさが強化される。人間には意味不明な動物の威嚇行動を観察しているような歌だと思う。
レスラーの「力」には、筋力、経験、精神力、虚勢、職業的なパフォーマンス、いろいろなものが作用していると思うけれど、そういった文脈には手を触れず、物理的な力が表出するポイントだけを平坦に描いているからこそ、「レスラーという職業」のではなく「力というもの」の物悲しさや一抹の滑稽さで一首を満たすという珍しいことができたのではないか。
通りすがりの人の家の窓を覗くときに、奥まではみえない。レスラーでいうとその胸の奥の心臓や、瞳の奥の脳までを透かすことはできないけれど、その窓にしか映らないものも確かにある。

 

あわれなるシールのごとき目をもてるオカメインコにゆうべ餌やる/内山晶太