染野太朗


熱帯魚のごとくかすかに触れあひてときに食ひあふ冬の家族は

岩﨑佑太「そして誰も」(「COCOON」6号)

 


 

「そして誰も」は12首の連作。

 

家族、というテーマで大雑把にくくるのならば、田中慎弥の小説に『共喰い』があって、この一首はそこから発想を得ているのかもしれない、目立ってオリジナルなものではないだろう、などといったことが言えるのかもしれないし、家族その他の人間関係を水槽の中の魚に喩えること自体もさほど珍しいことではない、とは思う。しかし、それであっても気になる一首だった。

 

条件によっては共食いをしてしまう熱帯魚がいる。その熱帯魚に家族のありようを重ねている。「冬の」家族、といったときに想像できるのは、早く落ちる日に合わせて雨戸なりカーテンなりを閉めてしまって、あたたかくはあるけれども薄暗く閉鎖的なイメージだろうか、あるいは、年末年始に、ふだんはかかわらないでいる(かかわらずに済んでいる)家族皆が集まっているようなイメージか。

 

「熱帯魚のごとくかすかに触れあひて」までがなにやら優雅でうつくしく、大きなひれをひらひらとさせ、お互いに近づいたり離れたりしながら泳いでいる様子が目に浮かぶのだが、「ときに」を境にして突然あらわれる「食ひあふ」によって、それが一転する。熱帯魚の、観賞魚としていかにもうつくしい感じ、穏やかな感じが唐突に消えてしまって、無惨さ、怖ろしさが顔を出す。いきなり顔を出す。

 

歌のこの構成が、シンプルでありながらとても効果的で、内容を引き立てている。うつくしい熱帯魚をまず描き、それを「ときに」以下で描き直し、熱帯魚の、上の句からはなかなか想像できない想定外の一面、意外な一面、といったようなものを描出する。それからその全体をもって、家族というものの性質を差し出す。描き直しによる怖ろしさと驚きがあるから、差し出された内容にインパクトがある。そして、初句に戻ってまた読み直すとき、「触れあひて」が単純ではないニュアンスを帯びてくる。付かず離れず、お互いに刺激し合わないように距離を保ちながら、といったような家族同士の感じも想像できる。「冬の家族は」の結句が、四句目までの内容を、象徴性を帯びたものとしてぐんと広げるわけだ。「想定外の一面」「意外な一面」といったことも単純には言えなくなる。

 

ああ、家族ってこういうものだよな、家族だからこそ、親しい間柄だからこそ、公共空間ではありえないような生々しく息苦しい、むしろ傷つけ合うような関係が生じることもあるよな、一首として言い得ているな、というふうに僕は思った……のだが、しかし、そういった家族の捉え方はまったく自分の経験にのみ根拠を置いた、ごく主観的な、視野の狭いものである気もする。

 

法律上の定義はもちろん可能だろうけれども、僕たちが日常の実感レベルで捉える家族って、どう説明すればよいのだろう。血縁がどうとかともに過ごした時間がどうとか、とにかくそういったことは、特にこの現代においては根拠にならない。では、僕たちのそれぞれの主観が、ある関係性を〈家族〉として認めるのだとして、その主観は何を根拠に、そこにあるものを〈家族〉と判断するのか、あるいはしないのか。

 

家族についての僕のそのような素人考えは脇におくとして、とにかく、家族の歌としてもしこの一首に共感するのだとしたら、「共感する」という僕(や他の読者)の判断は、いったいどこから生じているのだろうか。それともこの一首は、岩﨑にだけ実感できるはずの、ごく個人的な内容のものなのだろうか。

 

「そして誰も」には次のような歌も並んでいる。

 

・われを叱り弟を叱り飽き足らず冷蔵庫叱るけふの母親
・そして誰もゐなくなりたる夜の家かぼちやけたけたわらふこゑする