染野太朗


猫をわが全存在でつつみ抱くともだちになつてくれたら魚をあげる / その①

睦月都「ゆふやみと強盗」(角川「短歌」2017年12月号)

 


 

「ゆふやみと強盗」30首は、角川短歌賞受賞第一作として掲載された。

 

「ともだちになってくれたら」をひとつづきとして、この四句の字余りが、僕にはなんだかとてもしっくりくる。音読でも黙読でも、ここで音がたどたどしくもやわらかくふくらむ感じにとても惹かれる。「全存在」あたりの音の強さも含めて、読んでいて独特の気持ちよさがある。……といったような理由でまずこの歌が好きなのだが、よくよく数えてみたら、この四句、ふくらむどころではない、12音もある。それ以外の句はきっちりと定型に収まっている。

 

音の気持ちよさの話をするときは特に、それがフィジカルな、生理的なところのものだからか、僕の個人的な感覚の範囲をなかなか出ず、どうしても独りよがりの感じになる気がする。また、一首の音の印象といってもそこには、一語一語の意味、一首の内容、表記等々も複雑に影響を与えているはずなので、それを言葉で分析的に語るのは、そもそもちょっと無理のあることなのかもしれない、とは思う。

 

ただ、この歌の四句の大きなはみ出しそのものを、一首の内容とかかわらせようと思えば、それは読者の視点の如何によって、ある程度は可能だろう……定型からはみ出した分、ここだけちょっと散文的になり、他の句と比較して表情が異なり真顔な感じになる、だから「つつみ抱く」の優しいイメージから転じて、魚を「あげる」に至ってはどこか、「抱く」ではなくて覆いかぶさるような、支配するようなイメージが付与されるのではないか。七音のところにこれだけぎゅうぎゅうと音が詰め込まれているというところに、この人の、友を求める心情が、せっぱつまったような感じで凝縮しているのではないか。いや、ここにはむしろ余裕を感じる、そもそもの七音を無視して、ひらがな表記のやわらかさのままゆったりと読み下すとき、「魚をあげる」にはどこか冗談のような、また、陶酔のような感じが出てくるのではないか、支配と言ってもそのためのものが「魚」だなんてちょっと笑えるじゃないか、ユーモアがあるんじゃないか。……例えばそんなふうに読んでみることは可能だと思う。いや、これはこれでやはり恣意的な面もあるが。

 

この歌について柳宣宏は、角川「短歌」2018年1月号の「短歌月評」で、同じく「ゆふやみと強盗」の中の、

 

・朝なさな胸にほの立つさみしさのそれが都庁のやうに高いよ

 

も挙げながら(「朝なさな」は「朝ごとに、毎朝」の意)、

 

〈孤独感がしずかに沁みる。受賞作で難点として挙げられたのが、深刻なものを内に抱えているように思えるが、それがはっきりしないという点だった。掲歌では、「全存在で」や「都庁のやうに高いよ」といった言葉の斡旋が、深い孤独を伝える。〉

 

と言っている。この鑑賞を僕は否定しないけれど、実は僕自身は「朝なさな~」の歌に「孤独」よりもユーモアを強く感じてしまっている。「都庁のやうに」だなんて、さみしさの比喩(あるいは、「さみしさのそれ」とわざわざ言っているから、さみしさそのものでない別の何かの比喩だろうか)として、なんだか突飛で、情緒に欠けていて、冗談みたいではないか。

 

つまり、「都庁」という語に対する読者のイメージによって、この一首の鑑賞にはブレが生じるのである。このあたりのブレを解消するにはおそらく、「ほの立つ」の「ほの」や「高いよ」の「よ」のニュアンス、また、一首全体の音の感じやその他選択されている語彙を、できれば「ゆふやみと強盗」の他の歌も参照しながら検討するべきなのだと思うが、相当に手間取るし細かすぎる議論に迷い込みそうなので(そもそも今回はすでにかなり細かいことを言っている)、ここでは触れない。

 

長くなるので、今日はこのへんにして、次回へ続く。