みづうみは夢の中なる碧孔雀まひるながらに寂しかりけり

宮沢賢治『宮沢賢治全集〈3〉』(筑摩書房:1986年)


 

孔雀がみている夢を想像しながら、その寂しさに思いを馳せているのだろう。掲出歌が「動物園のライオンはサバンナが恋しいだろうなあ」というような歌とちょっとわけが違うのは、孔雀の故郷がたぶん湖ではないところだ。孔雀に対する「ここがいるべき場所ではない」という強烈な違和感が作らせた歌のように思うけれど、その孔雀が夢みる場所が湖だというのは、「碧」と強調されているようにあきらかに羽の色からの連想である。生態を無視されて色彩として扱われる孔雀にたしかに寂しさは感じるものの、それは孔雀が湖にいないからではなく、湖にいるべきだと詠われたからだ、と歌にひとこと言いたくなる。
ポイントになる場所に置かれたu音がくぐもらせる上句の韻律は、孔雀がいるべき場所を孔雀のなかに押し込めてしまった反転に呼応する。対して、a音がはっきり響く下句のあかるさは、まひるのあかるさでもありつつ、上句ではとじていた孔雀の羽が広がる様子が見立てられているようでもある。しかし、このあかるさのなかにも微妙な屈折があって、「まひるながらに」の逆接の根拠がよくわからない。ここが「夢をみる」ことにかかっているのであれば、夢は夜眠るときにみるものだから、という逆接がかろうじて成立するけれど、歌はあくまで「まひるだけど寂しい」といっている。もともと夜の孔雀より昼の孔雀のほうがより寂しいんじゃない? とか思う。でも、この「まひる」に確信がないからこそ、どのような時間帯、場所(湖以外の)にもけっきょくそぐわない孔雀の輪郭が際立つのではないか。
たとえば孔雀の姿に「私」の寂しさを投影していると読むにはあまりに屈折した理屈の展開に、この「寂しい」とは「美しい」のことなのではないかと思わされる。湖が孔雀のみている夢なら、孔雀はわたしたちのみている夢だ。

 

 

……というのがわたしがこの歌にみた夢で、実際には掲出歌は旅行詠として作られている。「比叡」とタイトルがついていることから、この「みづうみ」とは琵琶湖のことだと考えられる。現実の湖の美しさを、自らが夢の中でみる孔雀に喩えた歌である、という「正解」を付記しておく。