染野太朗


猫をわが全存在でつつみ抱くともだちになつてくれたら魚をあげる / その②

睦月都「ゆふやみと強盗」(角川「短歌」2017年12月号)

 


 

一昨日の僕の回の続きです。

 

ところで、睦月の第63回角川短歌賞受賞作「十七月の娘たち」のなかの、

 

・悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ

 

について、賞の選考座談会で東直子が、

 

〈「悲」という漢字をよく見ると骨みたいですよね。そういう文字面の感じと食べ終えた骨がふわっと漂うような、悪夢的な感じですね〉

 

と言っているのだが(角川「短歌」2017年11月号)、僕は「ふわっと漂うような」までは共感できても、前回とりあげた柳宣宏の評のなかの「孤独」と同様で、「悪夢的」とまでは言えないのではないかと思った。理由はあとで述べる。ただ、この歌のすぐ前には、

 

・春の夜によそふシチューのごろごろとこどもの顔沈みゐるごとく

 

があって、このちょっとまがまがしい感じを併せて読むべきとも言えるから、僕の読みのほうが例外的なのかもしれない。

 

さてもう一度、今回の一首。

 

とにかくまずは四句の字の余り方に惹かれた、また、その字余りを支えるひらがなのやわらかい感じに惹かれたのである。そして僕自身はこの歌にも、前回とりあげた「都庁」の歌と同じく、どこかユーモアを感じている。「ともだちになつてくれたら魚をあげる」は、字余りでややたどたどしく音が運ばれ、内容も相まって、そこだけちょっと幼い感じになる気がする。それがおかしみになって、猫をコントロールできる自分にちょっと陶酔するような感じや、柳の言う「孤独」を、背後のほうに押しやって、印象をやや穏やかにしていると思うのだ。いや、あえて幼い感じに言っているのも、怖いと言えば怖いか。

 

さて、そろそろこの文章を終えたいのだが、〈悲し、~〉の歌の鑑賞にも通じるので、少しだけ付け加えておく。

 

「つつみ込む」でなく「つつみ抱く」であったり、前回すこし触れた「ほの」であったり「よ」であったり、〈悲し、とふ言葉がけさはうすあをき魚の骨格となりて漂ふ〉の歌で「悲」の字をよく見て「魚の骨格」に見立てていたり、〈春の夜によそふシチューのごろごろとこどもの顔沈みゐるごとく〉の歌で、四句五句がちょっとクセのある音の構成になっていたり(6音「コドモノカオ」・8音「シズミイルゴトク」、あるいは7音「コドモノカオシ」・7音「ズミイルゴトク」とするのだろうか)、「ご」を中心にオの音がよく響いていたり、それから例えば、同じく「ゆふやみと強盗」の、

 

・くちつけて水を飲むとき思へりき 錫に淡青の炎あること

 

で、なぜ「飲むとき」に下の句のようなことを思ったのかは読者によって解釈が変わるだろうけれど、「思へりき」の文語助動詞の重なりと「き」の音が妙に印象に残ったり、……といったことが、僕にはとても気になるのである。

 

気になるというのは、欠点として気になる、ということではまったくない。修辞・技術として目立つので、それをあえて選んでいる、という感じが強くするのだ。作者が一首において、きっちりとしたコントロールをかけている感じ、修辞の肝・技術の肝を見定めている感じ、と言えばよいだろうか。

 

しかしそれを僕は、作為(作意)が先立つ、というふうには思わない。まったく思わない(きりが無いのでその理由にもここでは触れない)。そもそもこれらを「目立つ」と思うのは、音の話と同じで、僕の独りよがりな感想という面があるかもしれない。

 

ただ、言いたいのは、コントロールをかけている感じがあるとするならば、それが一首を客観的に見て操っている作者の存在を僕にちらつかせ、その分だけ内容への主観的な没頭が妨げられている気がする、それによって「孤独」「悪夢的」といったやや重たい心情・雰囲気が僕にはそこまで直接に伝わってくるわけではない、ということだ。僕がこれまで言ってきた「ユーモア」というところに、それは大きくかかわっているように思う。