染野太朗


さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は樹々を塗り籠めに来し

川野芽生「Lilith」(「歌壇」2018年2月号)

 


 

歌壇賞受賞作「Lilith」30首より。

 

逆らわないものだけがすぐれているのだと(そのときわたしは)聞いていた、季節は樹々を塗りこめに来た。……と、なんとなく言葉を補って、文語助動詞を単純に訳してみたところで、歌の内容はすぐにはわからない。上の句と下の句をどう関連付けるかということ、具体的な状況をどう想像するかということ、「樹々を塗り籠め」る、をどう読み取るかということ、等々を読者が自らほどいていく必要がある。抽象度が高い。そのあたりがいわゆる「短歌を読み解く難しさ」(つまりおもしろさ)につながるのだとは思う。

 

細かいことなのだが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形で、これは、このあとに何かしらの名詞が省略されているというより、言いさしの感じだろうなと思う。季節が塗り籠めに来た、ということの影響が歌の中でずっと続いてしまっている感じ、というふうに僕には見えている。

 

「季節は樹々を塗り籠めに来し」にはたぶん、樹木の色の季節ごとの変化をまず思い浮かべればよいのだろう。「春」はさまざまな色の花をつける。「夏」は濃い緑の葉が勢いよく茂る。「秋」は紅葉する。「冬」は真っ白な雪を被る…といったことだと思う。その「樹々」が、上の句の「さからはぬもの」の比喩になっている。たしかに、逆らわない、と捉えることができる。樹々は季節に逆らわず、その季節に応じてさまざまな色を、表情を見せる。季節にそぐわない姿を見せたら、僕たちはそれに違和感を抱き、気候の変動等その周囲の環境を嘆くだろう。

 

佳しとされるものや愛でられているものが「逆らわない」ということによって出現しているのだとしたら。それ自らではどうにもコントロールできない力によって成されているのだとしたら。そう考えて立ち止まる。

 

この一首の凄みは、季節という自然のサイクルを、つまり、そこにあって当然のものだったり、疑いようがなかったり、樹々をそのつど変化させてしかるべきものだったり、あるいは、むしろ情緒あるものとして喜ばれるものだったり、といったようなもののその〈価値〉を、反転させているところだ。もちろんこの歌そのものは季節を「悪」などとは言っていない。しかし言葉によって「樹々を塗り籠めるものだ」というふうに捉え直すことで(籠める、という語には特に強い力を感じる)、季節というものの〈価値〉を相対化してしまっている。

 

人間なんかよりもむしろそれぞれの季節をのびのびと謳歌し、積極的に自らを変化させている、あるいは、謳歌とまでは言えないまでもそれをしずかに受け入れている、というようなイメージで樹々を眺める僕は、驚く。そのように眺める態度の浅はかさに気づく。

 

突き詰めればもちろん、人間の思考や言葉とは関係のないところで、ひとつの現象として季節はそこにある。それを「季節」と捉えること自体が、人間の思考や言葉による操作のひとつだ。だから「塗り籠め」ると捉えることそのものにも妥当性はない。けれども「季節」というものに対するあまりにもお気楽な印象・イメージといったものに対して、この下の句は唐突に、先の尖った批評を投げかけてくる。

 

同じ一連に、

 

・汚名つね雪ぐあたはず 髪に背にくちびるに紅葉享けてあゆめり

 

という歌もある。いつだって汚名ははらすことができない、というその「汚名」の比喩として「紅葉」が描かれているように僕には思える。

 

この文章では触れなかったが、歌壇賞の選考委員が言うように、「Lilith」一連にはたしかに、男性社会に対する呪詛のようなものが描かれているのだと思う。ただ、それをただちに読み取れなかったとしても、伝わるものはある。呪詛、とまで選考委員に言わせる歌の力を、僕は例えば上に挙げた二首の言葉のありよう、認識のありようからまず読み取るのである。