玉乗りの少女になってあの月でちゃんと口座をつくって暮らす

藤本玲未『オーロラのお針子』(書肆侃侃房:2014年)


 

芸術に定価がつく世界だ。玉乗り、月で暮らす、といった絵本のような発想とは裏腹な「とりあえず口座」な態度は「きちんとした生活」への志向を表しているのだろうけど、前提として玉乗りという職業の給与体制への信頼を感じる。それが少女(未成年?)だろうと、月という場所柄、観客がいなかろうと、「いちど玉に乗ったらいくら」がはっきり決まっていそう。
掲出歌の目を引くところは、メルヘンな世界観のなかにひとつだけ「口座」という現実的な位相の単語が混ざっているギャップなのだけど、おもしろいのはこの口座が現実の性格を残していることだと思う。たぶんこの口座はあくまで「お金」を管理する機関であって、月に住む玉乗りの少女の口座であっても「星のかけら」が支払われたりはしない。それは「口座」という単語自体の強度や、「ちゃんと」という副詞の効果もあるだろうけど、何よりも歌のつくりが大きく後押ししているように思う。
この歌には丸いものが次々に出てくる。玉乗りの玉、月、それから銀行口座はそれ自体は丸くないけれど、「円」にまつわるものであり、数字のゼロや硬貨など、何かと円形に関係するものだ。つまり、丸いもののイメージで歌を転がしていて、それ自体が玉乗り的であることは見逃せない。玉乗りの少女になる、と宣言するかしないかのうちに一首は玉乗り方向にすべりだしていて、ものすごい言動の一致がある。
また、重力が地球より小さな月では玉乗りがやや易しいであろうところも、体重の軽い「少女」という選択とともに考慮しておきたい。玉乗り(やや現実的)→月(現実的ではない)→口座(めちゃめちゃ現実的)というコースで読むとこの歌の名詞の間にはそれぞれかなりの段差があるけれど、玉乗り(やや現実的)→月(玉乗りをより現実的にするための手段)→口座(めちゃめちゃ現実的)と読むとなだらかで、このなだらかな裏道もまた「玉乗り」を「口座」がある現実側に引き寄せているのだと思う。
掲出歌にかぎらず、藤本玲未の歌には「本当は現実的な○○童話」とか呼びたくなる雰囲気がある。『オーロラのお針子』というタイトルは、ここまで現実的な作者の歌集名にしては甘すぎではないか、と思っていたのだけど、そういえば「お針子」も職業である。