染野太朗


白鳥と太陽が呼吸をとめる一瞬のまぶたのようにあなたであった

瀬戸夏子「源平合戦」(「短歌研究」2018年2月号)

 


 

五七五七七の定型を意識したときこれをどう口に出して読むか、というところがまず気になるが、僕は「はくちょうとたいようがこきゅうをとめるいっしゅんの・まぶたのように・あなたであった」と、上の句では定型をあまり意識せず、音をちょっとだけ押し込めるように読み、下の句はゆったり、いう感じで読んでいる。

 

……今、なぜ僕はそう読むのか、ほかの可能性はどうか、ということを書きはじめたのだが、理屈を言ったり自分の体感を説明したりということをやっていくうちに、ちょっと分量も説明もおかしなことになってきたので、やめておきます。短歌の調べ、韻律、音、ということに関して今すごく関心があるのだが、とにかくそれについてはまた別の機会に。

 

その、調べや韻律ということも含めて、自分の体感をゆたかに刺激してくる歌だった。

 

白鳥の色や羽毛の質感、太陽の色とそのまぶしい光、その光が白鳥を強く照らす感じ、をまず意識した。そして「呼吸をとめる」にはこちらの身体の感覚を刺激された。読みながら実際にちょっと息を止めてみて、そのときの身体の感覚を確認する。その身体の感覚を伴って、白鳥と太陽が呼吸を(というより動きそのものを)止める感じ、さらに、その色や質感を(一瞬だけ)失うような感じも、僕は想像した。「一瞬の」はそのごく短い瞬間とともに、「呼吸をとめる」以前にあったはずの(長い)時間をも意識させる。そこから、呼吸を止めた瞬間あるいは止める直前のまぶた……僕は、人間のまぶたが震えるような、閉じるときのその瞬間のような、とにかくごく微かな動きをしているまぶたをイメージした……が意識される。まぶた越しに届く太陽の光も少しだけ意識した。

 

まぶたのよう「な」であれば、「あなた」はそこに存在するひとつの人間(モノ)として固定されるのだが、まぶたのよう「に」と言われると、モノとして固定された手触りのある「あなた」でなく、動きがあるというか、現象というか、概念としての「あなた」というか、状態というか、そういう次元で「あなた」を描こうとしているように思えてくる。(基本的に「ような」は体言にかかっていき、「ように」は動詞や形容詞といった用言にかかっていくわけだから。)

 

そういった白鳥や太陽のイメージと、「呼吸をとめる一瞬の」がもたらす体感のすべてが「あなた」に集約されていく。そしてその向こうに、そういうふうにごく繊細に感覚をはたらかせて、全身で「あなた」を認識・体感し、それを直感的にとらえている人が見えてくる。あなたを「あなた」と呼ぶ人が見えてくる。

 

そういったことが全体として、個性的な韻律(僕自身はこの歌の音の構成を、内容とからめて、やや緊張感のある、しかもわりと心地よいものとして感じている)に乗って、粘るようにして、一点に凝縮されて、ひとつの体感そのものとしてこちらに届く。色、光、質感、身体の感覚、時間、といったものがひとまとまりになってこちらを刺激してくる。

 

やたらとややこしい説明になった。しかも肝心なところを説明していない。太陽が呼吸を止めるってどういうことなのか。それはどういうときか。その「一瞬」とは、具体的にはどんな時間か。どの瞬間か。このまぶたは誰(何)のまぶたか。白鳥と太陽のまぶたなのか、違うのか……そういったところを検証していない。

 

そして、自分のこの文章を読み返してみて自分でちょっとぞっとする。感覚でしかとらえていないわがままな鑑賞文、という気もする。初句からひとつひとつ読んでいったはずなのに、同時にそのひとつひとつの言葉を無視して読んでいるような感じがする。具体と抽象の区別をつけず、助詞や助動詞の働きも無視しているような、自分に都合のよい形でしか読んでいない気もする。

 

では、僕がとらえた、一首が全体として体感を刺激してくるあの感じは何だったのか。色彩や光、動きや時間をいっぺんに感じたあの読後感は何だったのか。
自分のこの読み方も手放せないでいる。