平岡直子


鉄のよこたわる雨野をぬけてきたような声もつ不在者あなた

小林久美子『恋愛譜』(北冬舎:2002年)


 

掃除用具で通称「コロコロ」と呼ばれる粘着ローラー、この歌を読んでなんとなく思い浮かべたのはあれだった。あまりきれいじゃない喩えで歌に申し訳ないけど、貶してるわけでもゴミだと言ってるわけでもない。歌が、通り道にあった要素を表面にくっつけながら進むような感じ。そして、この印象はそのままこの歌のなかで「あなたの声」に対して抱かれている印象なのだと思う。
「不在者」とあるので「あなた」は目の前にはいなくて、たぶん電話か何かで声を聞いている、あるいはただ頭のなかで声を思い出しているだけなのかもしれない。その声から連想された「鉄のよこたわる雨野」はひとつの風景として翻訳するのは難しい。たとえば「鉄パイプの置かれた建設予定地に雨が降っている」みたいなこじつけはできなくはないのだけど、この部分はそういったはっきりした実景の言い換えではなくて、声から感じる質感を再構成するとそうなったという、瞬間的な心象風景だと思う。湿り気、開放感、重さ、錆の匂い、そういった質感がぱらぱらと拾える。
小林久美子の歌はほっそりしている。イメージの飛躍や主述の屈折はそれなりにあるのに、なぜかすーっと下に抜ける印象で、だから転がすことで太っていく「雪だるま」とかではなく「掃除用具のコロコロ」に喩えたくなる。その理由として掲出歌からひとつ指摘できるのは、名詞と動詞が同じくらいの比重で配置されていること。「鉄」と「雨野」はそれぞれ詩的なイメージ喚起力のつよい名詞だけど、「よこたわる」のつよさはそれらの名詞をじかに関係させることを妨げる。
「ぬけてきたような」というのは直喩で、つまり実際には声がどこかを抜けてきたわけではないのだけど、そもそも声というものは抜けてくるものだ。肉声は声帯を抜けてくるし、それが電話の声ならさらに電話線を抜けてくる(いや、電話線ってもしかして前時代のもの?)。とにかく、何かしらの通路、それもふだん人がなかなかのぞき見できない通路を抜けてあらわれるものだ、という声の性質は、上の句のちょっと難しめの喩に説得力を付している。
結句の「不在者」はコロコロの付着物を点検する場所のように用意されている。そこで立ち止まるとその先の「あなた」は句読点くらいの扱いになってしまって「あなた」の像がちゃんと結べない。結べなくていいんだと思う。

 

汽車で来て舟で帰るというひとはみずいろのある服にくつろぐ/小林久美子