染野太朗


思うひとなければ雪はこんなにも空のとおくを見せて降るんだ

小島なお「豆電球」(「短歌研究」2018年2月号)

 


 

 

「短歌研究」の「あたらしい相聞歌をさがして」という特集に寄せられた10首連作の1首目。前回の瀬戸夏子の歌も、同じ特集に寄せられた連作の1首目だった。小島のこの歌も前回の瀬戸の歌も、連作全体の中でも味わいたいし、残りの9首もすべて取り上げたいくらいなのだが、そこはぐっとこらえて一首のみ読む。

 

この歌の「思うひと」というところは、恋にまつわる「ひと」に限定する必要はないと思うのだが、ひとまず恋の歌として読んでみる。

 

恋がその明るい性格を見せて「世界がきらきらとして見える」などというときであれ、その負の側面が顔をのぞかせて嫉妬やら怒りやらの執着その他が湧き出ているときであれ、どちらも恋に夢中になっているからこそのものだ、という点で変わらない。この歌はその、よくもわるくも視野が極端に狭くなり、近視眼的になってしまう感じがかつての自分にあって、でもそこから今は隔たり、ものがよく見えるんですよ、風通しのよい心の状態にあるんですよ、そのことにハッと気づいたんですよ、ということを伝えているのだと思う。

 

しかしそれにしてはさびしい印象を残す一首だなあと思う。

 

こまかいことなのだが、「とおくの空」でなく「空のとおく」と詠まれていることに注意したい。「とおくの空」だと最終的に、空の深さよりも空全体の広がりのほうが目立ってしまうと思う。「空のとおく」だからこそ、空の奥のほうへ視線が届いている感じ、広さでなく深さを意識している感じが伝わってくる。

 

空そのものではなく、見上げた視線が空の深くまで届いていくさまが、降る雪とともに見えてくる。雪の舞う空間に高さがある。ずっと上のほうの雪まで見える。よく見える。降る雪の軌道が長い。いつまでも舞っている。かつてその「思うひと」がいた頃は、雪はただ白く冷たく、薄明るく曇った空の色と混じり合ってしまっていて、自分の周囲に舞う雪を眺めるのがせいぜいのところだったのかもしれない。空の高さや上空の雪をあざやかに感じとることなど無理だったのだろうなと想像される。

 

「こんなにも」「降るんだ」と、まさに今降っている雪とその空のはるかな高さを、かみしめるように実感する人物。この人物を前に、しかし読者としての僕は、むしろかつて「思うひと」があった頃のほうに、どんどん意識を引き込まれていく。

 

遠くまで見つめることのできるようになった目が、雪と空の色の差異をしっかりと感じとれるようになったその視野が、その視線の向かう空の先でふたたびきゅっと狭くなり、暗くなる。その向こうにかつての自分とその相手が見えてくるような気がする。

 

ひとつひとつのことばがたいへんにシンプルで、そのことばの構成にもなんら難しいところはないと思う。でも、だからこそなのか、今ここにある具体的なものごとを描いているはずなのに、抽象度の高い歌に見える。そして読めば読むほど、その視線と心情、空と雪の色や明るさ、対比される現在と過去が、どこかのっぴきならないものとしてこちらに迫ってくる。「こんなにも」という思いが、かつての思いとともに降ってくる。あの頃のものでは決してない雪が、いつまでもいつまでも降ってくる。