隠さずにどうしてそれを告げたのかはじめはまるでわからなかった

染野太朗『人魚』(KADOKAWA:2016年)


 

留守の隙にこそっと染野さんの歌を取り上げます。

 

掲出歌を前に、わたしはどうして「それ」が隠されているのかがはじめはまるでわからなかった。一首だけを取り出して読むと、なにか普通なら隠すべきことを率直に告げた人がいて、それに対して困惑している、ということしかわからないし、「隠さずに告げた」の主語が「私」である可能性も消せない。文脈や具体性を欠落させるのは短歌ではある手法だけど、そういった歌として読むためには、最低限必要な情報の七割くらいしかない、という印象。
この歌は、連作中の直前の歌を参照すれば「それ」を指すのが「家族旅行」のことだとわかり、さらに歌集全体を参照すると「家庭を持つ人との恋愛」が浮かびあがってきて、やっとこの一首の意味は補完される。家庭のことを自分との関係に持ち込むのは無神経ではないのか、という非難の色がみえる歌だ。読者に対して「それ」の内容が隠されているのは、自分に対して隠されるべきだったことが隠されなかったことの反転なのだろうか。前の歌がなければそういう風にも読めるし、この情報の欠け方自体に、読者は勝手になにか重い宣告を想像するかもしれない。しかしこの歌の場合、欠落は前の歌に完全に補われている。
先に書いた文脈や具体性を欠落させる手法は、つまりはなにかを「隠しながら告げる」ことが短歌を成立させるということだ。対して、(「それ」の具体的な内容を)隠しながら(「それ」を告げられたことを)告げつつも情報をほとんど伝達しないこの歌は、内容として言っているのが「隠せ」だとしても、作りとしては隠すことへの批判のように受けとれる。
そもそも前後の歌や歌集全体の文脈を参照しなければ内容がとれない歌を入れることは、散文的な読み方を読者に要求することで、歌集の要素の大半を占める「行間」を無視するということだ。行間もまた隠されたものといえる。そしてたしかにこの歌集には、「隠さない」ことへの過剰な要求がある。嘘や偽りを憎む内容の歌や、人を裸にしてなお「眼を開けろ」と要求するような歌も何首かある。作者の人生とつよくリンクさせる構成のわりに「作者の人間性や経歴を知ってほしい」というような欲望はあまり感じられないこの歌集は、「こちらも隠さないからそちらも隠さないで」ということだけを訴えているかのようにすら思える。言葉に対する信頼の厚さと短歌に対する信頼の薄さがすれ違う様子が、歌集中で描かれるさまざまな他人との苦しいすれ違いとオーバーラップする歌集であり、それは掲出歌の印象でもある。
日時を含めた具体的な数字、地名の刻印、自らの暴力性への言及が歌集中に多くみられるのは、どうにか正直であろうという試みのように思えた。好みでいうとそれらの試みが極端に振りきれる直前の〈一度だけ抜こうとしたが 教室の壁に錆びたる四つの画鋲〉〈ペコちゃんの短い腕を拭きあげてバンザイさせて店員は消ゆ〉というような歌をわたしは良いと思ったけれど、そういった歌を一首だけ取り出して別の文脈のなかに置くことを歌集が要請しなかったので掲出歌を選びました。