平岡 直子


夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには顔があまたありすぎ

林和清『去年マリエンバートで』(書肆侃侃房:2017年)


 

ホラーっぽいトーンと、詠われている内容のあまりの普通さの落差がすごい。夜の道を歩いていて、呼ばれて振り返ったときに人がたくさんいるのは普通のことだ。人がひとりいても普通だ。人がいなかったらちょっと普通じゃないけど、それはそれで怪談としては普通だし、たぶん聞き間違いだろう。
普通なのになんかこわい感じがするのは演出的なものだ。「夜の道に呼ばれてふいをふりかへるそこには~」という話の振り方はちょっとずるいところがあって、口調がいかにも「こわい話をしますよ」風なので、その先にある光景がなんであっても、人がいなくても人がいてもたくさんいても、あるいは「わっ」とかでもこわいと思う。ほんとうは人がいなかったのかもしれないとも想像するし、「顔」がフォーカスされることによって人間の四肢の印象が消えるので、人魂や幽霊のようなものをみたのかもしれないとも想像するし、でもけっきょく通行人が多かっただけなんだろうな、という解釈に落ち着く。そして、それが、なにかあってはならない光景だったのだろうとも。

 

林和清の最新歌集『去年マリエンバートで』には以下のような歌があった。

思ひ出さない努力をやめて車窓より昼なら富士が見えるあたりを
死んでない人のことを想ふ日もあれば欅がまた葉を降らす

特徴的な否定形の使い方である。おそらくは思い出したくないことを思い出すほうをデフォルト、人を死んでいるほうをデフォルトに設定して、そこから振り返るように自分の状態を説明する婉曲さ。これらの歌が、一般的な言い方の死角を突くことによってカタルシスを起こさせる種類の効果を狙っているとは思わない。迂回路の途中に自分を置いてくることによって虚無のほうからものを見ようとしているような奇妙な身のひねり方を感じる。そして、これらの身のひねりを、局地的な否定形ではなくもうすこし大振りに行っているのが掲出歌なのではないかと思う。ふりかえるという動作とともに、夜の道に人がいるわけがない側の世界にしずかに軸足を移している。その予兆はたとえば「夜の道に」の助詞の「に」が、「道に於いて」ではなく「道に呼ばれた」とも読めるところや、呼ばれたこととふりかえることの因果関係をいったん切り離すような「ふいを」から読みとれるかもしれない。
この歌集に、林和清の従来の作風に比べると言葉より生身の肉体を感じる歌が多いことと、歌集中でなんども塚本邦雄が葬られていることは関係があるだろうか。関係があるとしたら、この歌はただ身をひねっているだけではなく、身をひねって振り返った先に向かって歩き出そうとしているのかもしれないとも思う。

 

秋雷がひとつ鳴りまた森閑と一度は死んでみる価値はある/林和清