くちなしの香るあたりが少し重く押しわけて夜のうちを歩めり

小原奈実「野の鳥」(「穀物」2号:2015年)


 

小原奈実の歌のいちばん鳥に似ているところは後ろ向きには飛ばないところ。内容も文体もつねに少し前をみていて、決別してきたものを振りきっている。下句が上句を振り返るような表情をすることもほとんどない。小原奈実の歌が鳥ではないところは、言葉のうえに生じる乱気流に航路を乱されるところ。そこで描かれる軌跡のふらつきによってみえない気流の質量を感じらせられるとき、彼女の歌をもっとも魅力的に感じる。
掲出歌はまさにそんな感じの歌で、少し重いのも、押しわけているのも、強いていえば空気のようなものだ。三句目、四句目の字余りが効いていて(四句目は「夜」を「よ」と読めば定型なのだけど、それだとすこし足りない気がする)、一般的に三句目の破調が忌避されがちなのは、三句目のあとの休符の大きさゆえに引き取り手のいない破調が句切れの部分に溜まるからだと思うのだけど、この歌の場合は「すこしおもく」の六音のささやかな重さのあとに「おしわけてよるの」の八音が重さの反動のように「うち」に向けて弾むときに、そこでいわれている重さの程度を体感として読者に手渡すように思う。
六月の夜の散歩ではくちなしの香りを発見するたびに歩みが遅くなってしまうわたしはこの重さに対して「わかる」と言いかけてしまうのだけど、この歌で詠われているのはそういったくちなしの香りへの愛着とはやや違う。街からの情報量の少ない夜のほうが嗅覚が鋭くなる感覚や、暗がりを背景にしたときの白い花の映えかたなど、夜とくちなしのあいだのいくつかのコントラストが織り交ぜられて、ある種の植物の香りが空間に帯のように発生するイメージが立ちあがる。そこでいわれる物理的な重さを、愛着のような気持ちの重さの言い換えのように読むこともできなくはないけれど、この歌に重いのはやっぱり空気のようなものだと思う。
下句に「夜のうちを歩めり」とある。ここの「うち」を、時間帯を指す言葉である「夜」に引きつけると「夜のうち」というのはある期間内を指す言い方だけど、「うちを歩めり」と後ろの動詞に寄せると、内外の内、つまりなにかの内部のようにも読める。これを意味のブレというよりも、小原奈実の歌において時間とはほとんどイコールで空間なのではないかと思うのは、たとえば

朝いまだ城のごとくに冷えゐるをつらぬきとほる肉体の鳥(「穀物」3号)

というような歌で、「朝」が城に喩えられているのを見ても感じることだ。あまりに透明なガラスでもヒビが入っていればガラスだと認識できるように、小原奈実の歌の一方通行の軌跡は、時間を空間として把握するための傷なのではないだろうか。この歌に重い「空気のようなもの」を、より正確にいうと「夜という空間」なのだと思う。