平岡直子


トンネルとトンネルの間のみじかきに朽ちたる家を車窓は映す

島田幸典『駅程』(砂子屋書房:2015年)


 

朝明(あさけ)ふと兆すよしなきよろこびはひとを歩ませさびしがらせる/島田幸典(同)
踏切に遮られたる道細くほそくなりやがて石段(いしきだ)となる
長き夜を書きつぐ隙にかすかなる莨(たばこ)の封の銀を切る音
バス停に隣るひとりが声にしてみじかく秋の虹を讃えつ
用ありていそぐ午前の舗道(しきみち)に犬の背ひかる春の日ざしに
夢の話は夢そのものに似て朝のうすくらがりに貝汁すする

 

島田幸典の第二歌集『駅程』のとくにいい歌に感じるのは風景の句またがり。言葉の上では句またがりを含めて破調はきわめて少なく、とてもスムーズに読ませるのだけど、そのなかで風景が分断されたり接続されたりしている。たとえば掲出歌はなめらかに導かれるけれど、トンネルとトンネルをまたぐ線路上で感知される「朽ちたる家」を句またがり的だと思う。上に引いた三首目の歌の「夜」が「銀を切る」ことで分断されながら、「書きつ」がれること、五首目の「舗道」上にどこか道と同化しているように現れる「犬」にも似たような印象を持つ。あるいは、一首目で道ではなかったものがいつのまにか道のようになっているところや、逆に二首目で道だったものがなだらかにつながったまま道ではないものに異化する様子にも、ひとかたまりのものの裏側の分断、句切れのようなものを感じる。
短歌の技法としての句またがりが句切れとのズレを利用して言葉の輪郭を強調するのに対して、これらの歌は言葉の意味性すらうしろに下がらせて、ある起伏だけをつたえてくるようである。これをとても贅沢なことだと思う。

 

ときどき旧五百円玉が財布に入ってくるとなんとなく嬉しくて取っておきたくなる。お金としての価値は保たれているものの(興味本位でさっき日本銀行のサイトをみたら、貨幣が使えなくなることってほぼないみたいです。旧五百円玉どころか、五百円札も、六十年前に発行停止になってる一円札とかもいまだにちゃんとお金らしいよ)、生活の上ではたとえば自販機には入らなかったりするので、「使えるけど使えないお金」であることが財布のなかの景色を変えてくれるからだと思う。
『駅程』にわたしが感じたのは大量の旧五百円玉の気配であり、その贅沢さへの喜びだった。高い技術力や、おそらくは背後にある厚い教養が無駄遣いされ、何かを伝達する手段としては機能していない。もともとすさまじく上手い作者なのは間違いないのだけど、第一歌集『No news』を読んだときの印象はすこし違って、ある感情、ある表現のために一首を鋭く貫くような修辞が矢印のようにページを通り越してこちらにぐさぐさ刺さってくるようだった。『駅程』の歌たちは刺さってこない代わりに、ジェットコースターに乗っているときのようなGを感じる。
修辞の無駄遣いへの矜持は、掲出歌の結句の「車窓は映す」に表れていると思う。ここの無人感がなければ、あるいはわずかに助詞の「は」が「が」に変わるだけで「朽ちたる家」は何かの象徴性や作者の感情を投影するモチーフになっていたのではないだろうか。そして、朽ちた家の意味がつよくなれば、トンネルや線路もどこか人生の暗喩のような重みを帯び、一首に表れるのは起伏ではなく感情の陰影というやや小さなものになっていたと思う。わたしは無駄遣いという概念がとても好きだし、なんらかの無駄遣いなしには言葉に詩を感じられない。