染野太朗


すれ違うときの鼻歌をぼくはもらう さらに音楽は鳴り続ける

阿波野巧也「さらに音楽は鳴り続ける」(「短歌研究」2016年11月号)

 


 

「井泉」第73号(2017年1月)に僕は、今日の歌について次のように記した。

 

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すれ違ってそのままなのだから、おそらく相手はまったくの他人。その人が鼻歌を歌っていた。その鼻歌を「もらう」。他人との、鼻歌のみを介した、その場限りの、しかしどこかいとおしい関係性。いや、関係性などというほどの関係は、本人の意識にはたぶん生じていない。しかしそのように、意識され得ないところで通じ合う〈他者〉と音楽への愛着はまぎれもない。鳴り続ける音楽は、その無名の関係性に対する、無意識下の高揚感としても読める。まったくの他人を、先入観によって他人とはしてしまわない、一般的ではないけれども豊かといえるその認識をここに読んでもよいはずだ。方法上の眼目は「もらう」だろう。うつるでも真似るでもない。「もらう」、つまり「受け取る」といったニュアンスさえあるからこそ他者が生きる。阿波野は日常語彙のニュアンスを巧みに活かしながら、それによって短歌を、修辞と内容両面において賦活しようとしているように僕には見える。(染野太朗「方法意識について」)

 

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「修辞と内容両面において賦活」というところの、特に「修辞」とか「方法」について感じているところを前回は記した。

 

今日は「内容」について。上の文章をさらに展開させてしまおうとおもう。

 

すれ違った相手が「まったくの他人」だとは言い切れないかもな、知り合いの可能性もなくはないな、と今は思っているのだが、とりあえず今回もうちょっと考えたいのは、下の句の「さらに音楽は鳴り続ける」についてだ。「音楽が鳴り続ける」ということを、「無名の関係性に対する、無意識下の高揚感」とか「まったくの他人を、先入観によって他人とはしてしまわない」とだけ読んでしまうのではなにかが足りない気がしている。

 

この「音楽」をBGMのようにとらえれば、それが自分と相手のバックに流れて、「もらう」ということによって生じた関係性を盛り上げている、というようにもちろん読める。「もらう」という語の「受け取る」「いただく」といったようなニュアンスを意識すれば、この音楽がその関係性を肯定的にとらえ、どこか祝福しているかのようにも感じられるとおもう。

 

ただその前に、まずこの歌がユニークなのは、そもそもその「無名の関係性」に光を当てているということそのものだろう。しかもそれは、距離をとったまま他人を観察して、それをただ「他人」のままに描いて生じるものではなく、また逆に、他人が自分にとって特別な関係になり得たことを描いているというのでもない。生活する者として「客として店員から釣りを受けとった」とか「駅員に駅の出口を尋ねた」とかいったように、一般化できる役柄のようなものがあるわけでもない。ひとりひとりの他人は他人同士のまま、瞬間的に、音楽をこちらから一方的に「もらう」、つまりその相手には意識されてさえいないかもしれないレベルで、能動的に関係を発生させている。

 

ここで深入りはしないけれども、僕たちは日々このような〈関係〉を、つまり、能動的で一方的で、けれども相手には意識されず、しかし相手と出会う前と後とでは自分が明らかに変化していて、その変化だけが長いあいだ自分をあたためたり寒がらせたりするという経験を、いくつも積み重ねている気がする。無名で一瞬だからこそ意識しにくく、けれども意識すれば輪郭濃く、無数に存在する〈関係〉と、それをもたらす他人のままの〈他人〉。

 

さらにこの歌の凄みは、焦点をその「関係性」にしぼってはいないということだとおもう。この人が意識しているのはあくまで、音楽が鳴り続ける、ということなのだ。歌の言葉の上ではそもそも「すれ違う」という語に「誰と」という部分が欠如していて、上の句から読んでいくと、誰かがそこにいるということは「もらう」あたりでうっすらと見えてくる程度だ。そして「さらに」と言って重視され指し示されるのは「音楽が鳴り続ける」ということであって、読者の前にせっかくその相手があらわれてきたにもかかわらず、ついにその姿は描かれることなく、音楽におしのけられるようにして、一首は終わりを迎えてしまう。

 

そこにいる相手、つまり、ひとりの〈人間〉を祝福するのではなく、そこに生じた〈関係〉を祝福するのでもない。「関係が祝福されている」のはあくまで、音楽が鳴り続けることによる結果であって、この一首によって焦点がむすばれるのは「音楽」、そしてそれが鳴り続けること。誰かの「鼻歌」だったそれは、ちいさな鼻歌であることから姿を変え、「音楽」といって一般化され、それにより(読み方によっては)なにか別のものを指し示すような象徴性さえ帯びながら、あくまでも「音楽」として意識される。鳴り続け「る」という現在形は、この場面を超えて、普遍的にかつ抽象的に鳴っている(というのもなかなかややこしい説明だが)ような印象をももたらす。あまりにもあざやかに提示されるこの「音楽」は、鳴り続けるということのなかでそのボリュームをどんどん上げてさえいるかのようだ。

 

つまりこの歌、〈関係〉ということを巧みに背後にただよわせながら、けれどもその本質においては、「音楽」というものそれ自体を祝福している一首、それが続くということを歌において実現している一首、と読めるはずなのである。

 

他人からの影響を受けながら、あるいは他人に影響を与えながら、しかしそこに過剰に思い入れをもって描くのではなく、けれどもそれを決してぞんざいにはしていない。「もらう」という語のニュアンスは、ぞんざいであることからは遠い。そしてそこにある対象、つまり「音楽」を、能動的に、鳴らし続ける。いや、鳴らし続ける、ではない。「もらう」という能動性のあとに、能動性をもった本人、鼻歌を引き継いだ本人は後ろに引いてしまって、「音楽」は「鳴り続ける」、つまり音楽そのものが前面に出てきて、意志をもって主体的に鳴っているように描かれる。音楽を「慈しんでいる」とまで言ってもよいのかもしれない。そしてそれでもなお、その音楽が他人から引き継がれたものであることを、この一首はいつまでも忘れない。「もらう」という語が、〈他人〉や〈関係〉の存在を、淡く、そしてしっかりと引き受けている。

 

この一首の破調や、「もらう」「鳴り続ける」という現在形の動詞二つによる切れ目、一首全体の音の高低も、落ち着いた躍動感のようなものを伝えて効果的だと僕は感じている。(音の高低というのは、「橋」と「箸」の意味の違いを担ったりするような、日本語において大切なところで、子音母音、拍数、リズムといったものと同様に、あるいはそれ以上に、歌の調べ・韻律・音といったところを語るには重要だとおもうし、方言などのことも考えつつこの話もいつかしたいのだが、話題として広がりすぎるのでここでは触れません。)

 

距離をおくのではなく、目をつぶるのでもなく、かといって過剰に入り込むのでもない。傍観でも没頭でもない。みずからの思いに閉じこもるのでも、自らのあり方をひらききるのでもない。かろやかな能動性が、この一首をあかるく立たせている。なんて自由な歌なのだろう、とおもう。

 


 

※諸事情あってしばらくお休みをいただきました。どうもありがとうございました。またよろしくお願いいたします。染野太朗