ゆくりなく枯野へと鶴まひおりて風景が鶴一羽へちぢむ

渡辺松男『きなげつの魚』(KADOKAWA:2014年)


 

最後にぱっと手を放す作者、という印象がある。それはたとえば初期の有名な歌である〈ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある〉の手のひらの返し方などにも共通する印象だけど、この歌が保っている上句に歯向かう時間の余裕に対して、歌集を追うごとに一首のなかで手を放すのがどんどん遅くなっているように思う。第七歌集『蝶』から何首か挙げると、

手のひらはわたし自身のものなるか結べば走りてゐる電車消ゆ
菜の花に両岸せばめられし川ちひさきながれよちひさき拍手
重力は山のぼるとき意識せり靴の踵に黒牛がゐる

いずれも四句目にさしかかるあたりまでは理知的ともいえる問いや描写だけれど、結句で理知の外側の事態が起こる。そしてその事態はそれまでの内容を打ち消すものとしてではなく、一連の流れとしてなだらかな接続で置かれるので、四句目以前の真っ当さまでおおきく動揺させる。さかのぼってもどこから変だったのかの切れ目がないので、すべてが変なような気がしてくる。導入が常識的でも帰着がそうだとは限らない、一文が途中でいくらでも翻る日本語の危うさを凝縮しているような文体である。この歌集の

ひまはりの種テーブルにあふれさせまぶしいぢやないかきみは癌なのに

の歪んだ輝きも基本的にはこのつくりの延長線上にあるものだと思う。死とは断絶ではなく別の世に移るだけなのだ、という死生観は歌の主題としてくりかえしあらわれるけれど、わたしはここに作者の日本語観のほうをつよく感じる。一首のなかに断絶はなく、ゆるやかに別の世に移るだけなのだ。
第八歌集『きなげつの魚』からの掲出歌もまた、結句で何かが起こる歌。枯野へ舞い降りる鶴という、写実のようにも、心象風景のようにも、またその両方が重なっているようにもみえるしずかな光景が最後に急速に畳まれる。どことなく折り鶴を連想するのは、「風景」という平面的な印象のものが一羽の「鶴」という立体を得るからだろうか。鶴自身も含むそれまでの全世界だったものが折り込まれてしまった鶴が置かれる場所はあたらしい位相であるはずだけど、そのあたらしい位相の具体性は示されない。読者に与えられるのは自分のいる場所が相対化される瞬間に足元を失うぐらつきまでである。強制的に気絶させられるような一首だと思う。