佐藤モニカ『夏の領域』(本阿弥書店、2017年)
この歌集の栞文で俵万智が、
つま先で空をめくりてみたきほど快晴であるブランコに乗る
夏蝶を捕らへしごとく指先に今朝のアイシャドー少し残りて
といった歌を引きながら、「日常の何気ない一コマを、さりげなく詩にする力が抜群の人である」と言い、
指先に小鳥を乗する手つきして教へくれたり海までの道
先割れスプーンで西瓜の種を落とすときましろき皿に五線紙の見ゆ
といった歌を引きながら、「目に見えないものを見、それを言葉で捕まえてみせることは、佐藤モニカの得意とするところで、大きな魅力の一つだ」と言っている(「見えないものを見る力」)。
歌集を読んでまさにそのとおりだなと思った。例えばそれは、
まつすぐにわれに向き合ふわれのありスタジオの大き鏡の前に
磨きゐるガラスのなかにわれに似てわれに最もとほきひとをり
といった、自分を見つめる歌にもあらわれている。鏡の歌はヨガ教室を題材とした連作に含まれているのだが、つまりこれは「ふだん自分は、こんなふうにまっすぐには自分(の内面)と向き合っていないなあ」と、ふだんは意識しない「自分に向き合わない自分」というものをするどく発見している歌だろう。ガラスの歌では、ガラスに映った左右逆の姿の自分や、ガラスという物質のなかにしかいない自分、透きとおってとらえがたい自分を、視覚的にとらえ直すことによって、客観的に把握することが難しい存在としての自分を見つめているのだと思う。磨いたところでいっこうに見えてこない「われ」。似て非なる「われ」。でも、遠い、ということだけは見えている。これも、見えないものを見ている歌と言えるはずだ。
三百件は眺めただらう間取図のそれぞれにある窓の夕焼け
白き蝶黄の蝶次々発ちてゆくここに見えざる駅のあるらし
平面上に描かれた単なる間取図から、そこには見えないはずの窓を立体的に出現させ、その向こうの夕焼けをもあざやかに提示する。植物かなにかから飛びたっていく蝶に、人々が駅から溢れ出る様子、どこかへ帰ったり旅立ったりしていく様子をかさねる。「見えざる駅のあるらし」と示すのみなのに、「駅」という語が効果的で、ドラマさえ生んでいる。
歌集中には、出産を経てからの次のような歌がある。
われを発ちこの世になじみゆく吾子に汽笛のやうなさびしさがある
人の世に足踏み入れてしまひたる子の足を撫づ やはきその足
子を抱き逃げまどふ夢覚めし後瞼にふかく戦火刻まる
愛はたいへんに深いけれど、それが「さびしさ」や「…しまひたる」という取り返しのつかなさとともに描かれるのは、例えば、
次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄
といった、佐藤の生活の場である沖縄の現在や歴史に対する眼差しに理由があるのかもしれない。見えないものを見る眼差しが、現在を太く通過したのちに未来へと向かうとき、それは〈予感〉としてときに「戦火」をさえ見せてしまうのだろう。
『夏の領域』を読みながら僕が一番に感じていたのは、この〈予感〉ということだった。結婚や沖縄でのあたらしい暮らしを詠んだ歌のなかには、次のような隣り合う二首もある。
手のひらに道のあること足裏に道のあること 深々と夜
さーふーふーはほろ酔ひの意味さーふーふーの君と月夜の道歩き出す
「道」を意識したのちの「深々と夜」。夜の闇のなかで今は見えないけれど、これから手にするものや向かうべき場所が意識されているのだろう。ここには何らかの〈予感〉が読み取れると思う。そして「君」と「歩き出す」。そこには月の光が射している。
さて、今日の一首。木漏れ日が「遠慮がちに恋を打ち明ける人のように」届く、と木漏れ日の様子そのものを詠んでいるわけだけれども、やはりここには、まだまだ幼い「吾子」の、将来における恋が想像されているのだろうなと読める。指を「照らす」とか「濡らす」とかいった表現ではなく、「届く」。遠いような近いような未来から光が贈りものかなにかのように、まさに今目の前にいる「吾子の指」にゆらめきながら射し込んでくるその道すじまで見えてくる。とてもあたたかい〈予感〉に満ちた歌だと思う。