四年前グアムで買った星型のにこにこシールを使い始める

仲田有里『マヨネーズ』(思潮社:2017年)


 

つよい感情を感じないわけじゃない。表現に鋭さがないわけじゃない。ありふれているわけでもない。読者として負荷をかけられる感覚がないわけではまったくないのに、仲田有里の歌を読むときにあまりにストレスがないのは、歌が無表情だからではないかと思う。
無表情というのは歌集全体への印象だけど、掲出歌では表情をあらわす擬態語であるはずの「にこにこ」にすら驚くほど表情がない。詩歌のなかに出てくる「にこにこ」はどちらかというと逆説的な不気味さを演出するところがあって、たとえば奥村晃作の短歌〈ロッカーを朝昼さすり磨いたらニコニコ笑うよロッカーちゃんは〉だったり、小池正博の川柳〈処刑場みんなにこにこしているね〉だったりを思い出すと、いや、簡略化された顔文字である「^^」がネット上ではしばしば相手を嘲笑うようなニュアンスで使われることを考えると詩歌に限らないのかもしれないけれど、こういったアイロニックな「にこにこ」と、画一化された表情で台紙にならぶシールはほんらい相性がいいような気がするのだけど、掲出歌にそういった印象はない。かといって逆に素直に、シールを使いはじめる楽しい気持ちと連動しているようにも一ミリもみえない。なんの象徴性のない、ただの名称としての「にこにこシール」である。

 

歌集『マヨネーズ』の歌にひとつ特徴的なのは、連続しているかのような光景が歌の途中でいったん相対化されることだと思う。たとえば、

構内に小さい庭がある駅を抜けてかわいい人と目が合う
昼過ぎにシャンプーをする浴槽が白く光って歯磨き粉がある
大きめの葉っぱが枕元にある私の冬とコップの水だ

というような歌があるのだけど、それぞれ描写的な「構内に小さい庭がある」ことや、「昼過ぎにシャンプーをする」こと、「大きめの葉っぱが枕元にある」ことが、歌の途中で「駅」や「浴槽」や「私」にかかる修飾として後景化する。これらの歌の上句が仮に連体形じゃなかったら、

(構内に小さい庭があり駅を抜けてかわいい人と目が合う)
(昼過ぎにシャンプーをする 浴槽が白く光って歯磨き粉がある)
(大きめの葉っぱが枕元にある 私の冬とコップの水だ)

視点人物の視野や意識の流れを追体験させるような歌になっていたと思うのだけど、上句がひとつの名詞にかかる修飾部としていったん確定されることで、そこから下句が展開しても上句とのあいだに時間的、距離的、心理的な遠近感が生じるすき間がなくなっているように思う。すこし過去に抜けた駅と、現在目が合うかわいい人が、一首のなかに同時に同じサイズで存在するような。それぞれいっけん長回しで素直に撮っているようなつくりだけど、この感じを正確に映像化しようとすると画面を二分割とかかなり無理やりなことをやっても再現はできないんじゃないかなと思う。言葉にしか、短歌にしかできないことだ。
掲出歌も、簡単な話、

(四年前グアムで買った 星型のにこにこシールを使い始める)

だったら、旅行に対するなんらかの思い入れを匂わせることによる表情のようなものはあらわれていたかもしれない。しかし、あくまで説明的な連体形の「四年前グアムで買った」は、時間的に遠い「四年前」、距離的に遠い「グアム」をシールと同じサイズ感で並べている。表情は広い意味での遠近感に宿るものだと思う。

 

上で例として挙げた歌もいい歌だと思うのだけど、わたしが掲出歌により惹かれるのは、上に挙げた三首のモチーフはある清潔感のもとに整列しているのに対して、掲出歌のモチーフがファンシーだからだと思う。旅行先としてのグアムも、グアムで買うものとしてのにこにこシールも、選択としてなんというか投げやりと言いたくなるくらいのもので、ミーハーと呼ぶにも王道っぽさが足りない。そういうモチーフを、「駅」や「浴槽」や「冬」など、短歌で見慣れた風景と同じ強度で切り取れるところにも作者の淡々とした美質はあらわれている。