憧れの山田先輩念写して微笑む春の妹無垢なり

笹公人『念力家族』(宝珍、2003年)

 


 

2015年にはテレビドラマ化もされた歌集だ。

 

笹公人の歌が短歌総合誌で論じられる機会ってすくないな、と漠然と思っていたのだが、今回笹の歌を取り上げるにあたってちょっと調べてみると、現在発行されている短歌総合誌という枠を取り払えば、歌人にも歌人以外にも、かなり丁寧に、数多く論じられているということがわかった。詳細は省くが、ただそれらは、笹公人という歌人の作家性や「念力短歌」「オカルタンカ(オカルト短歌)」を俯瞰して、一括された全体として捉えるようなものである場合が多い気がする。歌の素材があまりにも個性的だから、あるいは、一首一首が、笹の作品の全体像を捉えることでさらに魅力を増すようなつくりになっているから、だろうか。

 

だから、というわけでもないけれども、今日はあえて一首だけを取り上げて読んでみたい。

 

笹の作風になじみがなくても、この一首には「念写」とあるから、この一首が現実からはちょっとズレた世界で語られているのだということはなんとなくわかると思う。……いや、現実にも念写のできる人はいるのかもしれないけれども。そういう設定がまずおもしろいのだが、妹の憧れが、念の力で先輩の像を再現するほど強い「憧れ」なのかと思うと、僕はちょっとぞっとする。念写の世界では、ちょっとスマホを向けて撮影するくらいの気軽なことなのかもしれないが、でもやはり、ちょっとストーカーめいた、重い心情を感じさせる行為だと感じてしまう。たぶんそれは、念写の「念」の字が思いのほか強く機能しているからなのだろう。翳りのないまっすぐな心情なのかもしれないけれど、それを外側から読む者としては、やはり尋常でないものに感じる。

 

ところでこの一首だけを読んだときに、山田先輩は男性なのか女性なのか、そのあたりは、読む者の価値観や思考のありようを直接に、するどく反映させるところだろうなと思う。どちらでも、あるいはどちらでなくてもよいはずだ。

 

「無垢なり」という措辞も「重たく感じる」という僕の感想を支えているのだろうなと思う。妹を心配したり、それはやり過ぎじゃないかとはらはらしたり、ぎょっとしたりというのではなく、ただただその心情を純粋無垢なものだと言い添えている。僕が「重い」などと言うのは、念写ということになじみのない立場の者が「念」という語にその重みを感じ取るからこその読みなのであって、妹を描くこの人は、その念写は問題にせず、まず「無垢」であるということにフォーカスしている。それによって、この人がまったくこの「妹」側の世界の人間なのだということが伝わってくる。つまり、念写が特異なものである世界との対比で、この人にもどこか尋常ではない部分があるのだと思わせる。登場人物と語り手がどちらも特異な世界に行ってしまっているわけだから、それを読者として眺めるとき、取り残されたような心細さが残る。心細いというか、ちょっと怖い。その怖さが僕の「重たい」という感想を支えている。

 

そして、「春の」と「なり」という文語助動詞の効果に目をみはる。これが出会いや別れの季節である「春」のできごとだというところに、妹と山田先輩の関係にほんのすこしのドラマをにじませるし、それが(一般的には)やわらかくあたたかな印象を伴う季節であることは、「微笑み」や「無垢」であるというイメージにふかく寄り添う。妹を見つめるこの人の眼差しをもあたたかい印象に仕立てる。「春の妹」という、体言に「の」で直接季節を伴わせる言い方(これは、散文よりも短詩型においてこそその季節のイメージを増幅し抒情を生むような、独特な言い方だと思う)や、最後の最後にあらわれる「なり」は、これが短歌であるということを、「念写」というあまり短歌には見られない素材との対比で、むしろ強く意識させる。そこにおかしみを感じ取ってもよいのだろうけれども、僕は「無垢なり」としか判断しないこの人の、語り手として登場しながらも念力の世界の側にいるというズレたあり方を、固くパッケージしてしまう装置のようにも感じている。

 

この歌をはじめて読んだとき、僕はその念力世界の変な設定や語り手のありようにまず笑った。そして、重たさに共感し、春のイメージを伴ったあたたかさや、変な一首を凛としたたたずまいにまとめ上げる「なり」という文語助動詞のあらわれ方に、ちょっと感動した。もちろんそういう鑑賞の仕方でもかまわないのだと思うが、でも、詳細に読めば読むほど、そういった鑑賞とは別に、「念写」ということがテコになって、この一首は僕の常識をどこまでも相対化してくる。念写ってスマホで撮るような軽いことなのかもな、とか、これを重たいと感じるのはただ僕の常識であって、そうではない可能性だってあるよな、とか。僕の「読み」ってなんなのだろうと、自分の読み方のクセみたいなものについてなんとなく考えてしまう。「春の妹」という短歌的な言い方をはじめとして、一語一語の機能そのものや、語と語が互いに支え合って緊密に構成されているということも、非現実的な「念写」が素材だからこそ、この「妹」と語り手だからこそ、わかりやすく浮かび上がってくるのだと思う。