染野太朗


ねむたさとさびしさをよりわけたあとねむたさに寝る 春の新月

橋爪志保「階段」(「はるなつ」、2017年)

 


 

上の句に対する読み方の可能性がふたつあった。

 

ねむたさとさびしさとをそれぞれ別々に感じているのではなくて、それらが入り混じったものがまずは感覚されていたのだろう、というのがひとつ。入り混じったその感覚とはどういったものなのか、これはもう読者によって想像するものが異なるのだとは思うが、僕は、これは要は「ねむたさ」なのではないかと思っている。さびしさによる薄暗いような気持ちで、ぼんやりとして、知らず知らずのうちに眠気におそわれてしまっているような状態。……という状態をはたして僕は経験したことがあるのか、それがあり得ることなのか、わからないけれどもそのように思った。寝ることをわざわざ「ねむたさに寝る」と言い直すわけだから、ここで言う「選り分ける」とは、ねむたさとさびしさの総体から(なんだか大げさな言い方だが)、さびしさを注意深く取り除く、ということのように思える。

 

もうひとつの読み方というのは、もっとほかのいろいろな感情や体感もあって、そのなかから、ねむたさとさびしさのふたつを取り出してきて、さびしさは抱えたまま、ねむたさのほうに心と体を寄せていって、眠りにつく、というもの。

 

結局僕はこのふたつのどちらかに決めることができていない。

 

人間も生き物である以上、月の満ち欠けからなんらかの影響は受けているらしいし、また、「春」も「新月」も、ものごとの始まりを象徴するものとして捉えられるから、ここには、何かを新しくしたい、リセットしたいという気持ち、または、何かが更新される予感、といったものが含意されているのだろうとも思う。あるいは、春の(夜の)うすぼんやりとした感じや新月の不穏なイメージを重ねて、ちょっと重たい眠りや空気感を読み取ればよいのだろうか。ふたつめの読み方をした上では特に、ねむたさに押しやられて結局行き場のなくなったさびしさを、春の新月に預けるような、そういった感じも出てくるかもしれない。

 

……と歌の意味を捉えようと上のように書き進めていくと、僕がこの一首をはじめて読んだときの感動からどんどん離れていく。

 

ここからまた主観のごり押しでいきます。

 

今日の一首を読んで僕がまず感じたのは、平仮名の羅列がいかにも「ねむたさとさびしさ」の渾然一体となった様子を表しているなということ(だから初読の時点では僕は、ひとつめの読みしか可能性として考えられなかった)。それから、二句から三句にかけての「より/わけたあと」という句跨りが、心情の屈折を表しているようでなんだか気になるなということ。そしてその屈折のあたりに、具体的にはそれがどういうものかわからないけれど、わざわざ「選り分ける」ということをする意思の根拠があるのだろうなということ。それから、「春の新月」は、それが見えない「新月」であるわりに、うすぼんやりとした平仮名表記や感覚を描く上の句との対比から、特に「シンゲツ」という音のあたりが、妙にはっきりとした輪郭を印象に残すものであり、それが一枚の絵画のようにも思えるということ。それによって、四句までとだいぶかけ離れた印象をもたらすなということ。だからこの「春の新月」はこの場面の背景としてそこに飾っておくだけでよく、四句までの内容とかかわらせる必要はないのではないかということ。ただ、きっぱりとした口調というか、妙な生真面目さは感じ取れるかもしれない。その生真面目さが句跨りにかかわっているのかもしれない。そして、「ねむたさに寝る」というのを発音してみると、音というか、口や舌の動きというか、それがちょっとからみつくような感じで、いかにも「ねむたさ」「寝る」という体感を表しているな、ということ。

 

そのようなことを初読には思ったのだった。

 

そして、身体の感覚(ねむたさ)と心の感覚(さびしさ)を明確に区別して、身体の側に意識を向けていく感じを追体験しようとするとき、この歌には、読者としての自分の身体を再発見・新発見させてくれるようなところがあって、それは、こう言うとちょっと大げさなのだが、ひとつひとつの動作を確認しながら体を動かすヨガやストレッチに近いもののようにも思えた(心理学の理論というのか、心理療法というのか、そのひとつに「臨床動作法」というのがあって、ヨガやストレッチよりも実はそちらのほうをまず連想したのだが、僕はその専門家ではないし、この連想はただの思い込みかもしれない)。

 

この、〈体感〉に直接介入してくるような感じがとにかく印象的で、この一首を好きになったのだった。

 

……とこのようにおぼつかない状態のまま、それでもこの欄にこの歌について書こうと思ったのは、僕が初読のときに感じた上のような感覚、特に「自分の身体の再発見・新発見」というのは、たとえそれが僕だけのへんな感じ方だったとしても、短歌からあまり得たことのない種類のものだったから、ここに開示して読者の方々からその適否についてまたこっそり感想などをいただきたかったというのがひとつと、それからもうひとつは、「春の新月」に意味を見出すことをしないというのは無責任なことなのかどうかとか、一首の「韻律・調べ・音」というのは「読み」においてどのようなものとして捉えるべきものなのかといったことを、ちょっと長い時間をかけて考えるきっかけにしたかったから。

 

例えば「短歌の要は韻律だ」「調べこそが大切なのだ」というのはよく聞く話だけれど、韻律・調べ・音といったものが一首の「読み」の中心として展開・議論されるのはあまり見たことがなく、いつでも短歌の「読み」は、一首の意味や論理に向かっていく。そのおまけのように、意味を補助するものとして、音の話がなされる。僕はいま二句から三句の句跨りや「ねむたさに寝る」「シンゲツ」の音のありようを語ってみたけれど、結局はそういう、意味・内容とかかわらせるような語り方になる。また、音(拍)の数や母音子音の細部に目をやるなど、どうしても分析的な語り方になる。

 

同じように「春の新月」も、ふつうは、四句までの意味・内容とのかかわりをもつものとして扱われるだろう。四句までの内容と「春の新月」を、いかに説得力のある理路をもってかかわらせることができるか、あるいは、かかわらせないでいられるかということが、「読み」の良し悪しを決めるようなところはあると思う。

 

言葉にとって「意味の確認・伝達」の機能はたしかにたいへんに重要(というか、日常の感覚においては、ほぼそれが機能のすべて)なのだけれども、だとしたらなぜ、意味と音とを対比させた上でわざわざ「短歌は韻律だ」などと言い、そう言いながら結局「意味」の話を中心にまとめていくようなことをするのだろう。……だいぶ話が雑になってしかも仮想敵のいそうな感じが出てきたのでこのへんでやめます。また折に触れて考えます。

 

今日の一首、「春の新月」の印象とともに得がたい体感を味わわせてくれる歌、そして「短歌とは何か」というようなことまで考えさせてくれる歌だった。