春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花

盛田志保子『木曜日』(BookPark:2003年)


 

歌集というものは読んでいるとときどきいい歌がある。歌集によってはごろごろあるし、歌集によっては一首か二首くらいしかなかったりする。ひとつ確かなのは、すべての歌のよさが均質な歌集などないということ。「地の歌」なんていう用語があるように、作者の側が意識してその起伏を作ったりもするのだろうけれど、たとえ作者に「名歌で(もしくは駄歌で)揃えてやる」という意気込みがあったとしてもムラはできてしまうものだと思う。わたしにとって、絶対的ないい歌の基準とはべつに、歌集のなかで相対的にいい歌だと思うのは、「超えている」と感じるときに多い。作者の言いたいこと、あるいはやりたいことの十全さを超えて、短歌のかたちをとってしまったために何か想定外の事態が起きている部分がある歌。
盛田志保子歌集『木曜日』の印象はめずらしくその逆で、この歌集に収められている歌の大半は「超えすぎ」だと思う。だから、なんらかの意味で留まっている部分がある歌に附箋がついてしまう。盛田志保子は言葉を自由に遊ばせるような作風ではなく、むしろそれぞれの歌の背後にはたしかな実感のようなもの、作者にとっての根拠や因果関係があるのだろうという手触りがあるのだけど、その具体的な内容は言葉同士の反応のつよさとしばしば相殺される。説明にはあまりなっていないままに、でも実感に手綱を握られていることが、言葉を「自由な詩的空間」にじつははっきりと存在する壁に当てないつくりになっていると思う。たとえば歌集の序盤に〈藍色のポットもいつか目覚めたいこの世は長い遠足前夜〉という歌があって、わたしはこの「藍色」につまずく。直感的に思うのは、この藍色は現実からの輸入品だろう、ということ。つまり、実際に作者がみたポットが藍色だったから藍色としか書かれようがなかった種類の描写で、そういった重しがあることによって、「目覚めたい」がファンタジー的な発想の擬人化というより、生活のなかで聞きとってしまった声のように響くのだろう、と。だけど、歌からいったん目を離してからもういちどみると、結句の「前夜」に連想する夜空から呼び出された色であり、ポットの眠りのイメージなどを支える「配置」であるようにも思えてくる。一首のどこにどの程度の作為があるのかという判断が無意識に読みの方向性を規定することは多いし、この歌の場合はとくにポットに対する作為の強弱は「目覚めたい」という擬人化にどのくらい「私」の反射を読むかというモード選択にかかわってくるデリケートな部分なのにそこを制御しない。無制御なものはつねに魅力的なので、内容と歌の印象が釣りあいかけているような歌に附箋をつけるのは「やっとピントが合った」という安堵に近い。
なかでもいいと思う歌に、重力を感じるモチーフが含まれているものが多かった(船底、落ち葉、すべり台など。ラッキーにも歌集を持っている人は探してみてください)のはこの作風と無関係ではない気がするけれど、掲出歌は歌のなかに書かれてさえいない鉄棒によってどうにか地上に留められているような歌。ある範囲のなかでの上下の動きの往復である懸垂、一方的に上から下に降る花がひとつのフレームのなかに書かれることによって、懸垂をしながら体がどんどん上昇しているような浮遊感を錯覚させられる。雪が降りしきるのをみていると自分が上昇している気分になる瞬間があるのに近い。それは直接的には体力の限界へのチャレンジを促していると思われる「ここからは~」という台詞の物理的な途上っぽさからも感じる。どんどん昇るし、同時にある地点に留まっている。この歌のなかには長く居られる。
長い糸の先にある死を瞬間的に自分の胸元に引きつける感覚を詠った歌が歌集中に何首かあり、掲出歌はその変奏のようにも読んだ。生きているあいだにたぶん幾度となく聞く「ここからはひとりでいけ」という幻聴を人が最後に聞くのは死ぬときなのかも。それは顔を花でうずめる光景への連想でもある。だけど懸垂はめちゃめちゃ生きてないとできないこと、肉体的な生の極みのような営為で、その極限と極限の渡り合いが上昇と停留の両立と重なる。ここからはひとりでいけ。その声を聞くときの幸福を思い出させてくれる一首である。

 

【過去ログから】

雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって
春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花
いつか死ぬ点で気が合う二人なりバームクウヘン持って山へ行く