平岡直子


噴水が今日のさいごの水たたみ広場に蝶やダリアさまよう

江戸雪『声を聞きたい』(七月堂:2014年)


 

蝶とダリアが並列に置かれることで、半透明の茎のようなものがあらわれる。蝶はダリアに寄せられて軌道が限定され、ダリアは蝶に寄せられてひらひらと動きまわっているようにみえる。「さまよう」という動詞は蝶に対してはわりと合っていて、ダリアに対しては意外なものだけど、その妥当性を二者で分け合っていると思う。第一歌集『百合オイル』の〈こでまりをゆさゆさ咲かす部屋だからソファにスカートあふれさせておく〉という(散らかった部屋を全肯定してくれているようなうれしさのある)歌において、こでまりとスカートのあいだで何かが足して二で割られている印象を思い出す。
半透明の茎の正体は噴水の水の名残りだと思う。噴水が今日の仕事を終えるとともにさまよいはじめる蝶やダリアは、その一瞬前まで水脈によって統べられていたことを想像させる。広場が目にみえる噴水よりももうすこし大きな水に覆われていたことが感知されている。

 

江戸雪の〈碧空をうけいれてきただけなのに異形のひととしてそこにいる〉という歌をはじめて読んだのはアンソロジー、つまり抄出のなかで読んですごい歌だと思ったのだけど、しばらくして第三歌集である『DOOR』のなかでふたたび出会い「北朝鮮拉致事件」という詞書がついていることを知った。あのときの驚きは忘れられない。あの気持ちは、正直にいえば「がっかりした」に近かったと思う。この歌の論理のねじれや、結句の唐突な彼我の分離、名詞の大仰さなど、なにか奇妙に突き抜けている部分は解題的な詞書によってだいたい説明がついてしまう。大きくも読めるし小さくも読める自在な一首に「特殊な環境にある特定の誰かのことだ」とラベルを貼られることで歌を奪われたように感じてしまったのだと思う。
この「がっかり」についてはのちに思い直したところが大きいのだけど、初読時との印象の落差には作者の性質が表れているように感じた。わたしは解題がよくないことだとか、歌がミステリアスであるべきだとはまったく思わない。東直子の〈そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています〉という歌の上句が松田聖子の結婚に対する郷ひろみのコメントの引用だというのは作者本人が明かしているエピソードだけれど、この「解題」にはちょっとした意外性はあってもそれによって歌の印象が変わったりはしない。元ネタに干渉されない強度がある。逆にいうと、たとえば東直子の歌に比べて江戸雪の歌は一首が弱いのだと思う。文脈や、隣に置かれるものによって簡単に色がついてしまう危うさがある。それは透明感自体を構築している文体(笹井宏之とか)ともまた異なるものだ。
あらゆる短歌は社会詠だけど、どう社会詠であるかは作者によってずいぶん違う。江戸雪の歌はその違いを隔てる壁が薄いのだと思う。歌が液体的だというのは江戸雪についてよく言われることだけど、その印象にも通じる。具体的にいうとわたしはある粘性のある半透明の液体をイメージする。〈ねばねばの蜜蜂のごといもうとはこいびとの車から降りてくる〉という歌の「いもうと」の身体を覆うはちみつのような、あるいは組織液や細胞液のような。壁というより液体でモチーフも立ち位置もくるむ性質が、みる角度による歌の印象を変えさせる。掲出歌もまた水という「液体」が広場に余韻を残す「粘り」を感じる歌だ。
この液体の粘りやきらめきこそが江戸雪の歌の魅力だと思うし、一首の弱さというのは、この半透明感のことだとも思う。さっき「隣に置かれるものによって簡単に色がついてしまう」と書いたけれど、それは「隣に何も置かれなければ色がつかない」ということでもある。弱くいつづけるのは難しいことだけど、幸いにも短歌の一首の隣はたいてい空白である。

 

戦争に行ってあげるわ熱い雨やさしくさける君のかわりに/江戸雪