染野太朗


目印に名前のシールではなくてばんそうこうを貼る友がいる

北﨑友香子「父への手紙」(「一凛」、2018年)

 


 

前々回の神野と同じく、作者は高校生。作者は高校生、ということがわからなくても「名前のシール」というところでおそらく十代だろうなということは想像がつく。(ふつうは小学生くらいまでで、高校生はむしろ名前のシールなど使わないかもしれない。学校や生徒たちのあいだにはそれぞれ独特のルールというか文化というかがあるものだから、一概には言えないけれども。)

 

思春期の自意識だとか屈託だとかを想像して「こういうの、あるよなあ」と素朴な感想をまずはもった。通常のやり方ではなくて、人とはすこし違ったやり方で自己主張してしまうというか。そしてそれが「ばんそうこう」であるというところがいかにも、ちょっとした傷、痛み、屈託といったことを連想させて、十代独特の繊細さ、傷つきやすさ、みたいなものにも考えが及ぶ。いや、でも「十代独特」云々などと言うのは読む側の先入観によるものであって、「ばんそうこう」にもキャラクターや図柄がプリントされたものもあるし、単にかわいらしかったりかっこよかったりするものとして貼っているというだけなのかもしれない。ただ、「貼る友がいる」という、ちょっと引いたところから観察して述べているような感じは、批評、とまではいかないまでも、揶揄の類いと馴染みやすくはあり、この歌には友人の自意識に向けた冷めた眼差しが感じ取れる、というふうにも読めなくはないとは思う。

 

それでその「貼る友がいる」という言い方、いま目の前にそういう友人がいるのか、自分にはそういう友がいるなあと頭の中で思っているのか、どちらともとれるけれども、例えば「貼っている友」等よりも、「貼る友がいる」のほうが、「いる(存在する)」というところが強調されて、淡々と叙事に徹している感じがあり、その感じに僕は一読してちょっと笑ってしまった。それから、「ばんそうこう」のひらがなも絶妙だなと思う。これが漢字だったら「傷」を連想させすぎるような気がするし、ひらがなだと思って改めて見ていると、ちょっととぼけたような感じも滲んでくる気がする。いや、「とぼけた」はちょっと言い過ぎか。

 

以下、ちょっと脇に逸れます。

 

短歌コンクールの十代の応募枠の選歌をしたり小学校で短歌の授業をしたりといった経験があるのですが、そのたびに「短歌って怖ろしいな」と思うのが、あくまで僕個人の印象ですけれども、応募作品の内容に、花鳥風月を扱ってそれを愛でたりそれに励まされたり、健やかに自分の未来を志向していたり、家族や友人を思いやったりするような歌が多いということ。花鳥風月以外を扱い、また、悩み苦しんだり悪意を滲ませたりしている歌ももちろんあるけれど、それはおとなたちが安心して読めるような「健やかな苦しみ」である場合がほとんど。もちろん、それがわるいとか、無理をしてでもそれ以外の内容を作ったほうがいいのにとかいったことはまったく思わない。「健やかさ」にも当然役割がある。でも、なぜこんなふうにある種のパターンが生まれてしまうのだろう、ということはよく考える。考えるようにしている。短歌の決まりごとなんて定型「五七五七七」だけのはずなのに、なぜなのか。理由は、でも、いくつも考えられる。〈学校〉の課題としての作歌かもしれないこと(そうであることがわるいとはもちろん言い切れない。なんであれ、現場はさまざまなこまかいニュアンスのもとでその具体が成り立っているわけで、きっかけがどうであれそれがどのように作用するかはとても一般化できないから。以下同じ)。教科書に掲載されている短歌、教員が紹介した短歌はどのようなものか。教員たちはどのように短歌を授業で扱っているか。日常で接する五七五七七(あるいはそれに限らず定型全般)はどのようなものか。コンクールの選者の価値観や選歌の傾向。コンクールそのものの目指すところ。……まだまだいくらでも深入りできそうだが、いずれにせよ、例えば「五七五七七という制限があるからこそ自由になれる」というよく聞く話は(ここで言う「自由」の内容にはいくつかの種類があるけれど)、やっぱりちょっと嘘なんじゃないかと思うくらいだ。あるいは、「自由になれる」が本当だったとしても、「制限」が「自由」へと変わるその道のりには、その本人の自覚はともかく、とてつもなく険しいものがあるのではないかと思ってしまう。その距離が縮まっている理由をこそ、「自由」と言った人それぞれに聞いてみたい。ただ、そもそも、これは十代の短歌に限ったことではない。五七五七七という定型が非常に複雑に背負い込んでしまっている歴史や特性、それを取り巻く状況・イメージ等があきらかに、強固に存在するのだなと実感する。

 

なんでこんなことを記したか。今日の一首、これが何かのコンクールに出された歌なのかどうかはわからないけれども、「友人の屈託」「学校生活」といったところのみを足がかりにして読めば、その内容自体は「健やかさ」の範疇に収まる可能性もある(これは前々回にとりあげた神野の歌のいくつかにも言える)。でも僕はこの歌がそこからわずかにはみ出していると思うのだ、ということを言いたかったので言おうとして記し始めたらまた冗長になった。ひらがなの「ばんそうこう」と、何より「貼る友がいる」という言い方に、そういう表現の細部に、上に述べたようななんとも魅力的な視線と質感があって、それがその「健やかさ」を押しやる表現上の特性なのかなと思う。細部が歌を支えている典型なのではないかと思った。

 

いや、そもそも歌に取りたてて「健やかさ」なんて一般化したものを感じるのは、僕の読者としての目が何かしらの理由でまっすぐではなくなっているということのあらわれなのかもしれない。定型によって不自由になっているのは読者としての自分、ということ。定型によってというか、定型をいいことに、というか。それ以前に、「現場はさまざまなこまかいニュアンスのもとでその具体が成り立っている」なんて言いながら、〈学校〉というものに対する自分の先入観も、あるいは〈短歌〉というものに対するそれも、なんだかんだで大きいのかもしれない。
折に触れてまた考えます。