バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた

杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』(六花書林:2010年)


 

気の付かないほどの悲しみある日にはクロワッサンの空気をたべる
仰向けに逝きたる蝉よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて
ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の脚をそろえて
地図にない離島のような形して足の裏誰からも忘れられている

杉﨑恒夫のこういった歌を読んでいて感じるのは、発見や巧みな見立てのやわらかい差しだし方である。クロワッサンのなかの空気、蝉の胴体や脚の見立て、足裏の形の奇妙さ、いずれも着眼点としては鋭いけれど、もったいないほどにそこは素通りして、悲しさ、死への感傷、孤独などがつよく押しだされる。心情を正しくつたえるための手段としてこれらの修辞があるというよりは、川が海へ流れつくように修辞は感傷へ溶けこんでいく。つよい感情ではなく、普遍的で淡い感傷へ。このノスタルジックな甘さによって、鋭さに斬られることなく、安心して切なくなれる歌集になっていると思う。
砂時計、噴水、蝉、弦楽器、パンなど歌集中で偏愛されるモチーフはいくつかあり、それらにはたいてい空洞が見出されている。これらのほとんどが茶色っぽい色をもっていることも、枯れた風合いの歌集のトーンを決定しているかもしれない。
ごく大雑把にたとえれば蝉の抜け殻が敷き詰められているような歌集のなかで、まだ動いてる、と感じる歌に惹かれる。抜け殻が動くわけはないのだけど、風の吹き方によってはそうみえることもある。掲出歌は上句の比喩がガガンボの死に収束しきっていないと思う。この脚はまだ動く。そう思わされるのは、たんにバレリーナの脚に「踊る」「動く」という印象があるからではなく、バレリーナという存在がそもそも内包する死の気配、つまり、動きの軽さ、舞台の一回性、悲劇的な死を遂げる演目が多いこと、などがガガンボのほうの死と寄り添わないからだと思う。
韻律にも注目したい。かるいしにかた、と音もあくまで軽い結句に、バレリーナとガガンボの濁音の重さも対抗している。また、四句目「ガガンボのこんな」が五+三の八音になっていて、この字余りは「ガガンボ」を目立たせている。これはこの歌だけではなく、歌集のなかに散見される韻律の特徴である。五音のあとにもういちど五音が繰り返され、その先が字余りまたは句またがりがあることによって、二度目の五音の輪郭がつよくなる。たとえば、

大文字ではじまる童話みるように飛行船きょうの空に浮かべり
たった二つの関節もてば単純な生き物のごとく眼鏡あるなり
バケットを一本抱いて帰るみちバケットはほとんど祈りにちかい
晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない

まるで歌の中心部で三句目が複製されるようで、上下の対称性が強調される。代わりに下二句の反復はうすく、さらさらと流れるようである。砂時計を偏愛する作者が、モチーフとして取り入れるだけでなく歌自体を砂時計に似せていった軌跡がみえる。(シンパシーとワンダーの砂時計理論とは別の話です)

 

透明なたましいをひとつ住まわせる砂時計この空っぽの部屋/杉﨑恒夫