染野太朗


心いま針のようなりひとすじの糸通さねば慰められぬ

遠藤由季「うさぎ座の耳」(「短歌研究」2018年3月号)

 


 

「うさぎ座の耳」は30首からなる。

 

一首の内容が自分にとってわかりやすく、一読しただけでそれがすっと入ってきてしみじみしたりすることもあれば、一度読んだだけではなんだかわからず、でもほとんど直感的に「よいなあ」と思ってなんとなくその一首に長くとどまるうちに何かが見えてきたりすることもある。今日の一首については後者だった。

 

付け加えておくと、すっと入ってくるとか長くとどまるとかは、その一首の語彙がシンプルだとかむずかしいだとか、レトリックがわかりやすいとかそうでないとか、そういうこととはまったく関係がないこともあるし(そもそもそういったことは個々の読者によって判断がまったく異なるものだと思う)、また、歌がどうというのではなく、読み手としてのその日そのときの体調やらなにやらといったコンディションの都合で、わかるわからないの判断が変わったり、感動したりしなかったり、また、「長くとどまるという読み方それ自体」をしたくてそこにとどまってしまったりということもあるだろう。その日そのときのコンディションということでさらに言えば、この一首にはまだなにかありそうだけれども今はちょっと見て見ぬふりをしてあとで読もうとか、それでそのまま読まないでいて鑑賞した気になっていたとか、何年も経ったあとに「これほんとはすごい歌なんじゃないか」と思うとか、そしてもちろん、なにかの文章や歌会等で、だれか別の人の読みをとおして「よいなあ」と気づくこともある。それから、その気づきも、一首への感動というより、実はその別の人の「読み」や「読みのレトリック」に対するものだったりする場合もある(そういう場合の気づき・感動っていったいどういうことなのか、一首にとってどういう意味をもつのか、というのはまた別の話)。その他にも「読み」にまつわる条件やらなにやらというのはいろいろあると思う。

 

いきなり脱線してしまった。今日の一首。初句の切れ目にある「いま」は、さっと流して読むのではなく、かるく力がこもっているというか、「いま」であることを確認しているようなニュアンスをとらえて読むのがふさわしいのかもしれない。心が「針のよう」であると今まさに感じている、ということ。そしてそのような状態だから、心が針のようだから、ひとすじの糸を通さねばならない、そうしなければ慰められない、とこの人は思っている。

 

打消の助動詞「ず」の、「ぬ」という連体形が絶妙で、地の文からちょっとだけ浮き上がって直接の声になっている感じ、そしてそこに臨場感が生まれている感じがして、その結果、今まさに、もしかしたら危機感や焦りをもちつつ、ひとすじの糸を通すことを思いつづけている感じが出てきていると思う。これが「ず」だとまったくニュアンスが違ってしまう。「ず」だと、初句に「いま」とありながら臨場感は消えて、客観性が前面に出る。

 

それでこの一首に長くとどまるということの、その要となるのは、心が針のようであるとはどういう状態かということと、そこに糸を通すとはどういう行為なのかということ、そして糸を通すとなぜ慰められるのかということだ。

 

針のように鋭く尖っている心、つまり例えば、苛立っていたり神経質だったりする心、とまず読みはじめるのだが、そこに糸を通すという行為が加わることで、そのように読むだけでは足りないのだなとすぐに思った。それでさらに想像を広げる。糸というものの登場で、心が針のようだ、と言われるだけでは読者として想像しきれなかったかもしれない、針と糸の、観念でなく抽象でなく、モノとしてのありようが具体的に想像できるようになる。そこには針の軽さがある。細さがある。この心は尖っているだけでなく、頼りなくて軽い。きらきらと繊細に光っている。頼りなく繊細なイメージが、「針」とだけ言われるのよりも容易に、手ざわりをともなって想像できる気がする。では、糸を通すとはどういうことだろう。針だけではかんたんに失くしてしまうかもしれないけれど糸があれば大丈夫、というふうに僕には思えて、この糸が命綱のようにも見えてきたし(命綱、というのは糸の細さにとって適切なたとえではないけれど)、針単体ではできない「縫う」という行為もできるようになるのだな、などとも考える。それによってただ尖っていた心に役割が与えられる。なにかとなにかを綴じ合わせる。向かう先が生じる。また、わざわざ「ひとすじの」と言っている。ひとすじ、それがどこか別の場所にすうっと伸びて繋がっているようなイメージをもってもよいのかもしれない。でも、この「ひとすじ」は糸だから、頼りなくもある。だからやはり命綱とまでは言えないかもしれない。一縷の望み、なんて言うけれど、「一縷」ということのその頼りなさを思う。そもそも針の小さな穴に糸を通すのは、むずかしい、とまでは言えなくても、こまかい作業であることは確かだ。

 

あるいはそこには、命綱がどうとか縫う行為がどうとかいった象徴性などないのかもしれない。糸を通すということが、この針のような心にとってそのようにしか言えないそれ自体。「針とはどんなものか」「糸を通すとはどういうことか」と言って喩のように扱うことのできない、この歌の世界においてごくごく個別具体的なもの、というか。別の言葉で言い換えることのできない、それそのものとして眺めることしかできない、「慰められぬ」と言うこの人にしかわからない(それ以外の人がわかった気になってはならない)何か。

 

そのようにして想像・考えを広げるだけ広げたあとに、それらが、読者それぞれにおいておそらくもっと個人的な、別々のものに変換される。変換されなくても、「ああ、なんとなくわかる」ということで、共感できるかもしれない。これは、一首の解釈がブレるとかわかりにくいとかいうことでなく、読者の心情を映す「鏡」としての歌、ということなのだろう。いや、もちろんどんな歌も読者にとって「鏡」ではあるけれど、「鏡」であることをよりわかりやすく意識させてくれる歌、「鏡」であることが中心になっている歌、というか。

 

この一首に長くとどまる過程、「鏡」を見つづける過程において、自分の心の動き(の経験)を掘り起こす作業をする。これは心のどんな状態だろうかと、自分の心とじっくり向き合うことになる。そして自分の心がいつか「針」のようになったとき、問題が何も解決されなくても、この一首そのものが「ひとすじの糸」として現れたりするのかもしれない。……これもやはり、どの歌にもありうることだけれど。

 

ところで「心」ってなんだろう、この一首における「心」ってなんだろう、というようなことも思う。