平岡直子


秋になれば秋が好きよと爪先でしずかにト音記号を描く

穂村弘『シンジケート』(沖積舎:1990年)


 

短歌をミステリー小説にたとえると、ホワイダニットの短歌が多いと思う。なぜそれに着眼したのか、なぜその構図なのか、なぜその言い方が選ばれたのか、歌が抱えるさまざまな「なぜ」を解くことがすなわち歌を読むことになる。穂村弘歌集『シンジケート』を読んでいて思うのは、この歌集はミステリー小説でいえばフーダニットだということ。〈終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて〉という歌、この歌はわたしにとってはずいぶん長い愛唱歌で心の景色に刻まれてしまっているので自分の思い込みと距離をとって鑑賞するのが難しいのだけど、それでもちょっと踏み込むと、この歌の最大の謎は「誰がそのランプを押したのか」ということだと思う。このランプは絶対に点っているはずだ、というのはわたしの思い込みのひとつだけど(他にも「このふたりは絶対にバスの最後部の座席にいる」とか「このバスに運転手以外の乗客はいない」とか思い込みはいろいろある)、しかし、整合性のある場面を想定しようとすると、このランプは点っていないか、もうすぐ降車する他の乗客によって押され、ごく短時間点っていることになり、そのどちらもこの歌の眠りの深さに釣りあわないような気がしてしまう。このふたりが、わたしの思い込みのとおり車内じゅうのランプの光に照らされながらふたりきりで眠りつづけているのだとしたら、あのランプを押した誰かがいることになる。いないはずの誰かが。
掲出歌には二つのレベルの「誰」がある。一つ目は、「秋になれば秋が好きよ」と言いながら「爪先でト音記号を描」いているのは誰なのかということ。自然に読めば目の前にいる誰かだし、歌集の雰囲気を踏まえて限定すればチャーミングな女の子というところ。でも、これが「私」の動作である可能性を否定する材料はなにもない。この歌集には台詞も二人称もたくさん出てくるけれど、その二つが一首の歌にどちらも入っていることはほとんどない。つまり、「おまえが〇〇と言った」というような言い方が出てこない。省略できる部分は削るのはもちろん短歌のセオリーだけど、「私」以外の主語を読者に補完させる歌があまりに多い。一首まるごと台詞として「」で囲まれた歌ばかり出てくる連作のほか、掲出歌に似た作りだと〈春雷よ 「自分で脱ぐ」とふりかぶるシャツの内なる腕の十字〉など。これらの台詞は誰が喋っているのだろうか。歌集を通底する「俺」と「おまえ」の相聞的な空気は発話者を特定するヒントかもしれないし、実際にヒントになってしまっているけれどこれだって叙述トリックかもしれない。出所の揺らぐ発話は、上の終バスの歌に登場する、造語と思われる「降りますランプ」の「降ります」という「台詞」にも端的に発見できる。あのランプは一般的には「降車ボタン」である。この「降ります」はランプの台詞でもあり、同時に押す人の台詞でもあるだろう。
掲出歌のもうひとつの「誰」は、ト音記号を書いたのは誰なのかということ。このト音記号や、あるいは上に引用した春雷の歌におけるシャツのなかの「十字」は、仮に歌の主人公として「おまえ」的な客体がいたとしても、その存在が意思的に書いたものではなく読みとられてしまったものだ。爪先で描くト音記号は円や渦巻きとはわけが違う。リアリズムで読むと、インクの出ない爪先で描かれているのにたとえば「&」との区別はつくのか、と突っ込みたくなる。複雑な形で、しかも実用的な役割を持つこの記号は、たとえば台詞の心情や発話者の性格を象徴するといった意味合いを越えて啓示的に一首のなかにあらわれる。歌に読みとられてしまう、書き手のいない記号は誰によって書かれているのか、という謎がこの歌集を牽引しているものであり、おそらくはひとつめの「誰」に重なっているものである。
短歌のミステリーはホワイでもフーでもハウでもなんでもいいと思う。ただ、謎解き編からの逆算が見通せてしまうとつまらないのはミステリー小説と同じで、見通せるどころか謎解き編がないこの一首を、あるいはこの歌集をわたしはまだ読み終わらない。

 

A・Sは誰のイニシャルAsは砒素A・Sは誰のイニシャル/穂村弘