海だったはずのシャワーを浴びている さっきまでふたりがいた海の

阿部圭吾「海岸をたどる」(「早稲田短歌」47号、2018年)

 


 

「海岸をたどる」は15首からなる。これはもう読者としての僕の問題(というのかなんというのか)なのだが、この一連、とにかくこちらがくらくらしてしまうくらいにまぶしく澄んでいる感じがして、一読してちょっとうろたえた。全首引用してしまってそれで今日は終わり、ということにしたいくらいなのだがいつもどおり書く。

 

青だから海に行こうと言う人の胸の向こうに海を見ている
永遠を信じる儀式なんだろう国道沿いを君と歩いて
海岸に一歩ずつ近づいていくたび背中から生えそうな羽
二人用アイスキャンディーわりまくる パキン、ポキンと夏が鳴りだす
マッキーであなたの胸に線を引き水平線と呼べばゆらめく

 

冒頭から順に5首を引いた。「君」と海に行く。恋がどうとか言うのはほとんど野暮だなと思う。それから「君」といっしょにいるときの高揚感、と言ってしまうのもちがう気がする。ここには、「君」という人と「海」という場を、ぐっと身をあずけるようにいつくしんでいる人物がいる。それが「胸の向こうの海」や「永遠」「羽」といったものまで意識させているように思う。けれどもそこに溺れてしまうことはない。ひとつひとつを丁寧に感じ取っている。それを読者として追体験する。「わりまくる」その音が印象的に響く。歩くその足取りが触覚をもとおして伝わってくる。一首一首が示す景や見どころはシンプルだけれども、それぞれにおける心情は単純ではなく、そこにじっと耳をすましたくなる。そこにほんのわずかの翳がさす。それがここに引いた5首目。「マッキー」の、たぶん黒い色を、胸に引くとはどういった行為なのだろう。実際の行為だとはふつうなら考えにくいけれど、それも否定はできない。胸に線を引くときの(あなたの)かるい痛みや違和感といったものを読みとってもよいのかもしれない。この「マッキー」や「水平線」「羽」(もちろん「海」も)といったものは、15首の後半にも詠み込まれている。一連におけるそれらの象徴性を読み解いていく必要もあるだろうし、「マッキー」に関しては特に、「君」との関係や「君」への思いを読者として感じとるのに大切だと思うのだが、ここでは触れないでおく。(ところで1首めは、〈海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている/五島諭〉をふまえて読むのがふさわしいのだろうと思う。一連ではこれ以外にも五島やまた別の歌人の歌のすがたが感じられなくもないのだが、やはりここでは触れない。)

 

月にまで歩けるようになることを話して海岸線をたどった
パラソルは開かれたまま錆びてゆきいつか空へと飛び立っていく

 

未来や異空間に想像を向けている。そういった「今ここにないもの」が、「君」とともにいる「今ここ」を照らしだす。

 

それから、冗長になるので深入りはしないが、一連をとおして、例えばここに挙げた歌についてだけでも「行こうと言う人の」「向こうに」「永遠」「なんだろう」「国道」「生えそう」「二人用アイスキャンディー」「マッキー」「水平線」とうふうに長音がさまざまにあらわれたり(「永」遠と水「平」線は、長音、とまでは言えないかもしれないが)、また、句跨りやそれに準ずるような音の流れがところどころに出てきたりするなど、歌のつくり自体はわりとシンプルに見えるのに、五七五七七を活かしながらの音の構成は決して単純ではない。かつ、なめらかだ。

 

今日の一首は、一連の10首め。「いま浴びているシャワーは真水だけれど、地球の水の循環においては海だったこともある水なのだろうな」と想像している、とまずは読む。シャワーのたびにそういう想像をしているというわけではないだろう。でも、いま自分が海にいるからこそ一般論として「このシャワーのお湯もかつては海だったんだろうなあ」というふうに思い、「君」との時間に身をあずけていたからこそ「さっきまでふたりで海にいたんだよなあ」と思い、そしてそれによって上の句の「浴びている真水がまだ海水だった頃の海」に対する想像がなだらかに「今の(さっきの)海」へと接続した、と読むのがよいのだろうと思う。だから、一字空けを挟んで、海に対する認識が時間軸の上でズレている。それが一首の「海」にふしぎな奥行きを与える。それは「ふたり」の時間が生じさせた奥行きだ。概念としての、あるいは、太古までの時間を含みそうな上の句の「海」と、具体としての、いままさにそこにある下の句の「海」。そしてその具体としての「海」は、「ふたりがいた」という特別な海として意味をもち、具体からもやや浮き上がる。「~海の」という言いさしが、主に「の」のo音とともに、この人が感じているであろう余韻を伝える。「ふたりがいた」ということをじんわりとかみしめているような感じがある。それから、うつむいてシャワーを浴びているようにも僕には感じられて、ここにもうっすらと翳がさしているように思った。

 

(ちょっと脱線。oの音だけを取り上げたが、ある音というのは本来、一首のなかでその音以外の音ともかかわり合いながら存在しているのであって、例えばその「の」の音を単独でとらえて何かを言ったりするのはかなり取りこぼしがあるのだろうなと最近はよく考える。その音の付近の音や一首丸ごとの音の響きが一音に作用し、それがまた付近の音や一首丸ごとの響きにも影響を与える。全体的で、区切り目の入れにくいものだと思う。だから、一首にaの音がいくつあってeの音がいくつあるからこういう印象、句の最後がuの音だからこういう印象、などと単音で、また数や順番によってのみ語れるものではないはず。ついそういうふうにして話をしてしまうけれど。だから音の話はこまかく入り組んでいて、言語化するのがむずかしい。)

 

……いや、たとえうつむいていたとしても、それが「翳」と呼べるようなものにつながるのかどうか、一連を読むと、そう単純なものでもないということがわかる。景や心情をできるだけゆっくり追っていきたくなる15首だった。