差し向うさびしさしりて一脚の椅子とむきあう相聞歌篇

三枝昻之『水の覇権』(沖積舎:1977年)


 

「さしすせそ」のほとんどがこの順番通りに含まれている。「さしむかうさびしさしりて」とDJがスクラッチをしているような「さ」と「し」のもつれあいのあと、その「し」を継ぐように「いっきゃくのいす」と「い」で頭が揃えられる隙にさりげなく置かれる「す」、結句の冒頭という終わりのはじまりにあらわれる最後の「そ」からはじまる余韻。これらのS音の働きが歌の内容とある程度呼応していると考えるのは読みすぎではないだろう。そして、「さしすせそ」には「刺し」や「死す」が含まれているんだよなあ、と考えてしまうのは、読みすぎというか歌を離れた妄想だけど、それは歌集の雰囲気に影響されたものではある。学生運動の全盛期に二十代前半を過ごした作者のそこから約十年後のこの歌集には、まだ闘いの残り香がある。血の匂いというほど生々しいものではないけれど、行間にちらりちらりと刃物の光が反射するような。

髪のあしはら分けて発ちたる九人の西はたそがれ東は識らぬ
百の尖兵が千の群衆に還りゆくとき君も娶ると

というような、はっきり時代のうしろ姿を見つめる歌もあるけれど(一首目の「九人」は、第一歌集『やさしき志士達の世界へ』の〈まなかみの岡井隆へ 赤軍の九人へ 地中海のカミュへ〉とも対応するよど号事件の九人のことかと思うけれど、こう数字が多いのは「三枝」という名前となにか関係はあるのだろうか)、

花一輪 すれちがいたる幾たびをしずかにわれとさやぎあいたる
幾夜々を月のひかりに射されつつねむれば超ゆる魚の潮道

などの、花鳥風月寄りの題材の歌にもぱっと殺気をはしらせるような、というよりその殺気によって歌の美意識が保たれているような緊張感があり、そのなかで読む「差し向う」は親密さをあらわす描写というより「刺しちがえる」の亜種のようにみえてしまう。
掲出歌は「差し向うさびしさをしっている私は人ではなく椅子とむきあっている。これが私にとっての相聞歌篇である」とも、「椅子と相聞歌篇がむきあっている。相聞歌篇は差し向うさびしさをしっている」とも、あるいはその中間のようなニュアンスでも読めるけれど、椅子と相聞歌篇がむきあっている景でとった。椅子と相聞歌篇の関係に相聞歌で詠われる関係性が見立てられている入れ子構造は、相聞歌の登場人物もまた心中に椅子と歌篇のペアを抱いているのではないかと想像させられる。差し向うさびしさの輪唱である。