染野太朗


ことば持つゆゑのさびしさ人を恋ふにもあらざれど猫にもの言ふ

中島行矢『モーリタニアの蛸』(本阿弥書店、2015年)

 


 

投函をしばしためらふだしぬけに舌を出すかも知れぬポストに
ゐさらひを知り尽くしたる自転車のサドルを雨はほつほつと打つ
人生が二度あらば嗚呼そのやうなかなしいことがあつてはならぬ
閉ぢこめしままに茹でたる鶏卵をむけば時間の塊りはいづ
たはやすくむかれし蜜柑のあまつさへ小さく分かるることもかなしく
土鳩さへ鳴かぬあしたの冬を降る雨粒(うりふ)のひとつひとつが真水
いくひきの小動物を飼ふやうな臓器感覚、夜をねむらず
かなかなのこの夏鳴かず上半期経常赤字のごときさびしさ
水紋のやうにひろがる梵鐘は夕べの子らに届きたりむかし
出臍などと言はれし昔を思ひ出でて臍を見る臍に謎はふかしも
立ちぎはを不意の腰痛わが摑むあれやこれやに埃が積もる
戻りたる本のページに圧してある四葉のクローバーをわがいかにせむ
ベランダに垂れしTシャツしがみつく裾のかなぶんひとつをゆらす
夕暮れを桜木下に眼をひらく蟬は重機のごとく向きを変ふ
乳母車に足の親指舐めながらみどり児とほる夕暮れの町
花季ながき芙蓉もをはり秋ふかし非発情期を失くししわれら
押し釦おして車のながれ断つ、ことを恐るるわれと知らるな
ポケットのなかに拳をにぎりしめ出さざるままに冬はもうそこ
お向かひの窓より手をふる幼子へふる手をやめるそのタイミング

 

たくさん引いてしまった。

 

『モーリタニアの蛸』を読んでいると、「ルビンの壺」と言うから壺のつもりで眺めていたら実際に指し示されていたのは顔のほうだったというような歌、というとあるいは大げさなのかもしれないが、「たしかにそれも目に入っていたけどまさかそっちに(そちら側から)注目するとは」とおどろくような歌がわりと多くある。思わず笑ってしまったりもするのだが、笑うだけでは終われず、なんとなく立ち止まる。自在な比喩にもおどろく。

 

今日の一首。なにか文学作品が下敷きになっているだろうか。ちょっと意味がとりにくいのだが、挑戦してみる。

 

この「さびしさ」がなにによるものか、読みとるのがむずかしい。ことばを持つことによって避けがたく生じてしまう根源的なさびしさがまずあって、だから猫に話しかけたのか。あるいは、ことばの通じない猫に話しかけてしまった結果としてのさびしさなのか。あれこれと考えて結局次のように読んでいる。

 

ことばがあるからこそ、自分がいま抱いている感情がなんなのかわかったつもりになれる。これはうれしさ、これはさびしさ、これは怒り、というふうにラベルを貼ることができる。さびしいということばがあるからこそそこに「さびしさ」が生じる。ことばがあるからこそいま自分はさびしさを感じている。それは、人が恋しくてさびしい、というような種類のものではない。けれどもその代わりのようにして、さびしさをまぎらすために、猫に話しかけている。

 

というふうに読んで、でも結局猫にことばは伝わらないだろうし、だから、猫に話しかけるということ自体もさびしいことだよな、と思う。それで、次のようなことも考える。

 

ことばが無ければ、ことばが「通じる」も「通じない」もそもそも無い。けれどもことばがあるからこそ、そのことばが「通じるもの」と「通じないもの」に区別される。ことばが無かったなら生じないはずのさびしさ。

 

ことばを持っているからこそ、つねにそのことばを使って何かをしようとし、人間のことばが通じないはずの存在にもことばをかけるという滑稽なことをする。あたかも通じるような前提でそれをしてしまう。ことばに「意思疎通を図る」という機能があるからこそ、どこへ向けてことばを発したとしても発した途端にその機能は発動していて、でも例えば相手が猫なら、結局その機能は宙に浮いたままになる。ついに意思疎通はできない(いや、できる人もいるのかもしれないけれど)。

 

「ことば持つ/ゆゑのさびしさ」「人を恋ふ/にもあらざれど」という句跨りがかなりの効果をあげている気がする。特に後者、「人を恋ふ」というところで切れて、それをはっきり想像させたところでそれを打ち消す。すると、打ち消しているにもかかわらず、人を恋しく思っている状態が印象としてつよく残る。「見せ消ち」をさらに強調した形、というか。だから、打ち消されているのに、一首のまとうさびしさは、人が恋しいゆえのさびしさというようにも思えてくる。

 

……かなりややこしくなった。歌の芯から遠のいてしまったかもしれない。やさしいたたずまいをしていながらこちらに深く問いを立ててくるような歌が多いなと、歌集を読んでいて思った。