pianist 左手にキウイのいろと右手にストロベリーの色と

吉野裕之『空間和音』(砂子屋書房:1991年)

※「吉」の正確な表記は土に口


 

吉野裕之の歌集を初期から通して読むとおもしろいのはだんだん静かになっていくところで、第一歌集は起きてから寝るまでひっきりなしに喋っているおしゃべりな人のような歌集。インプットからアウトプットまでが速い、見たものがそのまま口から出てくる、という印象で、名歌然とした重みのある歌は少ないのだけど、一首一首にどこかしらおもしろいところがある。歌集を追うとだんだん口数が減っていって、一首単位での重みが乗る。ずっと変わらないのは空間がどこか歪んでいることだ。軽さによって生じる歪みもあるし、重さによって生じる歪みもあるけれど、文体が軽いときも重いときも歪んでいるのはこれはもうほんとうになにかが歪んでいるんだろうと思ってしまう。

スチームの音ひだりから聞こえいてゆっくりと部屋縮みはじめる
ビル 見上げてしまう高さからわが口中に傾いてくる
風景がこらえきれなくなっている一瞬は来てくずれてゆけり
犬が来て挨拶をする夕暮れは半分ほどが水だと思う
秋が来てふたりであるということのたとえば靴をなくしたような

複数の歌集からランダムに引いたけれど、これらの歌にあらわれる亀裂の予感や歪みは、不安の表出としてではなくむしろ空間はこうあるべきだというあかるさで描かれているようにみえる。とくに左右の非対称性への意識がつよいのは身体感覚によるものではないだろうか。第一歌集には睾丸のアンバランスさを題材にした歌もあったのだけど、人体を含め自然物はきれいに左右対称にはなっていないもので、その実感を見逃すまいとする実直さがこれらの歌の傾きを拡大させていて、さらに、硬直をきらう精神性との掛け合わせが大きく働いているようにも思う。

 

掲出歌は第一歌集から。アンバランスさの祝福がきらめくような一首。日本語の短歌のなかの「pianist」というアルファベット表記(アルファベット表記の頻出は作風の特徴のひとつではあるのだけど、キウイとストロベリーはカタカナなのにね)、「いろ」と「色」すら表記を離す徹底ぶり。他方、「ストロベリー」が「苺」ではないのは「キウイ」のカタカナに合わせられたのではないかと思うけれど、日常生活のなかで、「キウイ」と対になるのはやっぱり「苺」だし、「ストロベリー」のほうと対になるとしたら「マロン」とか「バニラ」だと思う。ここで表面的なバランスによって逆にニュアンスが定まらなくなる「ストロベリー」の浮き方には甘い高揚感がある。ピアニストの手を果物にたとえるのはそもそもやや唐突で、さらに味や匂いでなく色に話を絞ることで少しずつ話がずれて、そのずれから果物のいろんな要素がこぼれるようである。この演奏はいい匂いがするし、甘酸っぱい味がするし、そして色のコントラストがきれい。歌集名の「和音」とは、こういうずれからこぼれるものが歌のなかで奏でるハーモニーのことなのではないかと思う。
ピアノの演奏は奏者の両手がバラバラの動きをして、まったく違う音を奏でることで完成される。人体が対称なようで非対称である美しさが際立つ場面が、この一首では言葉の和音を駆使して再現されようとしている。