さうめん流しひゃーとさうめん流れゆきわれとわが母取り残されぬ

川野里子『硝子の島』(短歌研究社、2017年)

 


 

『硝子の島』における歌の一首一首は、それぞれ独立しながら、連作のなかで、あるいは歌集のなかで互いに緊密な関係を保っている。「東日本大震災」と「老母との関係」はテーマとしてくりかえし歌集に登場するのだが、それがある特定の一首や特定の連作内にとどまらず、一見それとは関係のない素材を扱うときにも、そういったテーマ自体が喩となり、陰となって、歌の輪郭を濃くしていたりする。また、そういう内容の面だけでなく、一語一語や修辞など、つまり方法についても、それがある一首にとどまらずに別の歌にも使用され、しかもその使用がくりかえされたりする場合もある。それによって、一語が象徴性をひろく帯びたりする。一首一首があくまでも現実に即していることは読者として意識できるのだが、歌のことばはそれぞれ、粘りをもってその一首や現実をはみだし、情感や思考をこまやかに伝える。先に示した「東日本大震災」「老母」といったようなテーマだけを追う読み方ならばなんとでも読みの言葉を継げるのだろうけれども、内容と形式両面における歌同士の緊密な関係が、決して単純でない構成のもとで歌集を支えているから、この歌集についてそのテーマだけを語るのはとても危ういことのように思うし、むしろそういった「歌同士の関係」を解きほぐすことによってこそ、作者の思考や感情のありようをとらえることができるのかもしれない、といったことを思う。

 

東日本大震災や老母のことをここではあえて避けて、例えばわかりやすいところでは、「風呂敷包み」という連作がある。全首引く。

 

眠るまへ心の隅にいつもある風呂敷包みのやうなものを思ひぬ
ねむる間も団栗落つる音はしぬどんぐりつやつや集まる夢に
むささびに遭ひたしぱつと飛びつかれ驚く大きな樹木になりたし
コンビニの光につよく照らされて殺菌処理され夫出でて来ぬ
うなづいてまたうなづいてゐねむりをしながら何かを諾ふことあり
花咲かずおほきくならず棘ふやす仙人掌ふしぎに息子は気にす
コピー機を六台売つた息子(こ)の一年、裏の椎の木よろこびたまへ
午前零時の満員電車、午前六時の満員電車、疲労は静か
わすれられゐることのみが仕事なる仙人掌ありて金鯱といふ
ひと月にいちどはかなき水もらひむくりと太き仙人掌がある

※( )内はルビ

 

まず印象的なのは「仙人掌」と、おそらくそれにたとえられている「息子」。午前零時とそのたった六時間後の満員電車。(社会への)皮肉ともあわれみともとれる「よろこびたまへ」は、同じ植物としての椎の木から仙人掌へと期待されたものだ。一首目で入眠のときの心の感覚(身体の感覚に近いような気がする)が語られたあとに、五首目では居眠りが描かれる。この居眠りのときもやはり「風呂敷包み」は感じられたのだろうか。何を包んでいるのだろうか。包むということが「諾ふ」ことなのだろうか。「花咲かず大きくならず」という仙人掌(=息子)を包みたいのだろうか。でもそれは棘を増やしつづけている。棘を増やしながら疲労し、それでも月に一度の水(月給の喩ととってよいのだと思う)によって「むくりと太」い。しかし疲労している。だとしたらこの太さはなんなのだろう。現代社会のある象徴として使い古されてしまった素材である「コンビニ」はそれでも登場し、その光は人を「殺菌処理」する。いまだにそのような認識が可能な社会を生きていて、ではそのような認識の延長線上にある太った仙人掌とはいったい何なのだろう。

 

……といった具合に(といってもこれは粗い読み方だが)、内容と方法が「象徴性」という〈現象〉を軸に読者の読みをかぎりなく導きうると思うし、それに対して読者として共感する、あるいは批判する余地も残されている。強烈に「われ」を感じさせながら、一方で読者自身の鏡にもなる作り方、というか。

 

今日の一首。シリアスな印象のつよい『硝子の島』にあって、このユーモアや、取り残されているはずなのにそうめんのように流れていったのはむしろ「われとわが母」なのではないかと思えるような読後の印象の反転、「ひゃー」というオノマトペとともにおのずと引き出される身体の感覚、というのか、笑ってしまいはするのだけれどもそうめんのように流されることによる妙な落ち着かなさ、こころもとなさに、一読して立ち止まった。母の歌としてこの印象は、歌集においてはむしろ例外的だと思う。「取り残されぬ」という感じはもちろん他の歌にもあると思うけれど。

 

母との歌はまたあらためて取り上げたいと思う。

 

付け足し。一見するとシンプルな作りと内容だからあまり目立たないのだが、こちらの身体の感覚を慎重に使って読み込むべき歌が『硝子の島』にはいくつか含まれていると思った。その一部を次に引く。身体の一部が語として登場する歌だが、それをもって「身体感覚の歌」だと言いたいのではない。そういった語も含めて、韻律や内容等の一首の全体に、読者としての身体の感覚で深入りすべき歌なのではないかと感じたものである。それによって一首の示す感情や景の質感がよりこまやかに見えてくると思うのだ。

 

捧げたるわが灯ちひさくカラヴァッジョ描きし裸足の足裏(あうら)照らしぬ
針の穴に糸とほすとき三つめの眼かなたへ見ひらくやうなる
兎の鼻こまやかにさぐりゐたりしは危ふきものであらむ吾の手
目眩ましの春光は来て認め印押せといふなり扉あければ
手摺りに縋りゆつくりと歩みゆく母はやがて吾なり吾が彼方なり