平岡直子


セイムタイム セイムチャンネル セイムライフ 悪夢の続きだったとしても

佐藤りえ『フラジャイル』(風媒社:2003年)


 

同じとき、同じチャンネル、同じ生活。日本語に置き換えてみるとぴったり仲良しのふたりという感じだし、ぴったり仲良しなふたりにとっては悪夢的な状況もロマンティックかもしれないけれど、掲出歌に目を戻すとこの歌はずいぶん孤独な雰囲気を湛えている。その理由は、日本語に置き換えずに読むときにあきらかになる。「セイムタイム セイムチャンネル」はラジオ番組の締めの台詞としておそらく知られているけれど、ある周期での繰り返しを想像させるフレーズである。つまり、「タイム」とは今このときのことではなくて、違う日、違う週にも存在する「時刻」のニュアンスがつよい。そのバリエーションとしての「セイムライフ」は、さっき冒頭では「生活」と訳(?)したけれど、「生涯」や「生命」といった意味でとるべきかもしれない。輪廻転生とかパラレルワールドといった世界観がはっきり想定されているわけではないけれど、やんわり念頭に置きたくなるくらいにはこの「セイムライフ」は遠い。ラジオのパーソナリティは「来週も同じ時間帯にこのチャンネルで」と呼びかけるけれど、リスナーは聴いたり聴かなかったりするだろう。セイム(same=同じ)という言葉が連ねられているのに、話が不確かな未来のほうへずれていく。誰かと、あるいは何かと同期しようとすればするほど距離がひらいてくようなこの歌の不如意さは、悪夢の続きというか悪夢そのもののようである。下句の「悪夢の続きだったとしても」は、タイムなりチャンネルなりライフなりが悪夢だったとしてもそれを継続しよう、という直接的な意味のほかに、ねじれの位置から一首自体の悪夢っぽさ、呼びかけの儚さを肯定している。
日本語のなかで使われる外来語には帰化しているものも多く、たとえばスーパーマーケットの略語の「スーパー」なんかは英語の「super」とはほとんど何も関係ないようなものだけど、掲出歌の上句のカタカナの部分はまだ日本語の手垢がついていない、日本語の辞書には登録されていないフレーズだと思う。かと言って直訳にかけると文脈がこぼれてしまう程度には日本語として扱われていて、いわば出生届の出されていない言葉のようなものである。ここの寄る辺なさが一首をより悪夢のなかに閉じこめているし、「タイム」「ライフ」「悪夢」の韻は外来語と漢語の住み分けがあやふやだからこそ反響するものだと思う。

ピンボール月の光をはじきつつ出口はないけれど待っている
部屋中にしたたる孤独がつくりだす半透明のミルククラウン
屋上の通風口の点在を星座のようにつなげて待つわ
ともだちの輪のなかにあるはちみつのような甘さがまとわりついた

歌集『フラジャイル』にはこういった歌がある。一首目にはっきり書かれているように、いずれも出口のない歌だ。丸いもの、円状のものがモチーフになっていて、閉塞感がつよいのだけど、それが妙にあかるい。息苦しさについに息をとめた瞬間におとずれる甘美な景色が掬われているように感じられる。出口がふさがれたときに強烈にキラキラする。掲出歌の「悪夢」という出口のなさはこれらの歌の先にあるものだと思う。万華鏡のような歌、と陳腐なことを言ってしまおう。その筒を読者ではなく作者が握っている稀有な万華鏡だから。

 

キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる/佐藤りえ