染野太朗


ドアの窓の真ん中にレモンドレッシングの広告はあり手のひらほどの

川上まなみ「手のひらほどの」(「ura」vol.2、2018年)

 


 

「ura」vol.2はネットプリントで、この春に岡山大学短歌会を卒業した5名がそれぞれ7首ずつを寄せている。

 

今日の一首。ふしぎなバランスの上に成り立っている歌だと思う。歌のなかのそれぞれの要素がお互いに、その要素がかもしだすはずの情感、質感、象徴性といったものを打ち消し合っている、というか。モノがモノでしかない、うつくしくもうつくしくなくもない、感情が見えない、といった感じがする。

 

ややこしく主観のごり押しになりますが説明させてください。

 

まず「ドアの窓の真ん中」。上方に小窓(と言ってよいのかどうか。教室のドアにあるような)があって向こうが見えるようになっているドアを想像した。あるいは上半分くらいがすべて窓になっているドア。その小窓に「広告」が貼ってあるならば、たしかにそれは「ドアの窓の真ん中」という表現になるのだろうが、広告が貼ってあるとはわからない状態でまず読むからなのか、あるいは字余り・破調のせいなのか、ちょっと冗長というか、説明し過ぎのような感じがしてしまう。「ドアの真ん中」くらいでもわかりそうなものだ、と思ってしまう。でも、そうしてしまったらまた別のものになる。「窓」に違和感があるのだろうか、風や光を通す開閉可能なものを想像するから。正確に描写しようとしてしかもズレているような、でもこのように表現するのが妥当であるような、へんな違和感が残る。もちろん僕が「ドアの窓」なるものを知らないだけ、想像できていないだけ、という可能性もある。知っているドアだけを参照して「小窓」と決めつけるのはこちらの勝手、恣意。それから「手のひらほどの」。これも大きさを示して言っているのだろうけれども、「手のひら」の形と「広告」の四角形(や円形や三角形。たぶん)とが相容れず、僕には違和感が残った。それとも、レモンの形をした広告で、それが指をそろえた手のひらの形に似ていたのだろうか。でも、それを「手のひらほどの」と言うだろうか。それで、この「ドアの窓の真ん中」と「手のひらほどの」のちょっと不器用なような、でも、モノに即して見えたとおり描写することに主眼のあるような生真面目な感じが、こんなに目立つ「レモンドレッシング」の、例えば「さわやかなイメージ」とか「すがすがしいにおい」とかいったものを打ち消している気がする。また、「手」というのはふつうそれだけでさまざまな意味を引き連れるのであって、だから「手を出す」「手を入れる」「手をつなぐ」といった言い方は、モノとしての「手」の動きだけでなく慣用句としての働きもするのだが、ところが「手のひら」であることがここでは奥行きのある意味や象徴性の類いを帯びていないように思う。そもそも「広告」という言い方も、貼ってあるものならば「チラシ」等の語のほうがしっくりくる感じがする。あるいは窓の向こうに見えている広告なのか。「あり」としか言えないような見え方をしていた、ということか。貼ってある、と読むのはやはりこちらの勝手。

 

何がどこにどれくらいの大きさでそこにあるのかということだけを、見えたまま感じたままに正確に描写しようとしている感じがする。余計な認識を通過していない、というか。それは「詳細な描写」とか、あるいは逆の「粗い描写」「フラットな描写」とかいうのとも違う。そこにぎこちなさを僕は感じる。しかもそのぎこちなさによって(ぎこちない、とくりかえして書いているが、まったくそれは表現上の欠点とか短所とかいうのではなくて……説明がむずかしい)それぞれの要素が情感、質感、象徴性といったものを抱えないですんでいるという感じ。上の句の「ドアの窓の/真ん中にレモン/ドレッシングの」というふうにかろうじて切れ目を入れられるこの破調も、ぎこちなさを支えている気がする。モノとしてただそれがそこにあって、象徴性を帯びない。平板な描写ではないのに、そして特に「手のひらほどの」という言い方はもっと何かを呼び寄せてよいはずなのに、そういう働きをするようには読めない。

 

こんなにも不甲斐ない両手 受け取った花束を抱えて座るとき

 

同じく「手のひらほどの」から。不甲斐ないと感じるのは、受け取ったときでなくそれを抱えて「座るとき」。相手からの祝意や愛情をうまく受け止められなくて不甲斐ない、ということより、座るとそれは姿勢として花束を持ちにくい、というあくまでも身体的・物理的な違和感のほうが目立つ気がする。祝意や愛情云々も意識されるが、感傷には流れにくいのではないか。

 

今日取り上げた歌は極端な例なのだが、よく読むと川上の歌は、感傷に近づいておきながらそれをそのまま素通りしてしまうようなときがあって、また、ほかの歌もふくめて韻律・音の面にも独特のニュアンスがあって、もうすこし深入りしてみたいのだが、このへんでやめておく。

 

「ura」vol.2からさらに引きます。

 

寄せかへす波間に君のこゑがして沖に流さむ復路の切符/平尾周汰「卒業」
仏頭を抱えるように生えている木の、ながいながい祷りだった/白水裕子「Thailand」
本屋での尿意に似ている黙祷を捧げるさなか喋れないこと/青木千夏「棺と白熱球」
「一匹じゃさみしいよね。」は、水槽のことか、それとも金魚のことか、/長谷川麟「tautology」