夕照はしづかに展くこの谷のPARCO三基を墓碑となすまで

仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』(紫陽社:1985年)
※引用は『仙波龍英歌集』(六花書林:2007年)より


 

二冊分の歌集をなんどか通読して惹かれる歌に附箋をつけても、それが十数首はあっても、それらの十数首について考えても、けっきょく「仙波龍英はこの一首を遺した」と思ってしまうのが掲出歌。この歌のいちばんいいところはPARCOの大きさだと思う。実在する商業ビルであるPARCO(たち)はあたりまえだけど墓碑に見立てるにはとてつもなく大きく、しかし、「三基」とまとめられることで印象がすこし縮小して「墓碑」という比喩にあまり無理なくつながる。下句で言っていることだけをみると、それなりに遠い場所からの眺めとしてビルが墓碑サイズにみえたという話のようだし、しかし上句の「この」谷という言い方は、まさに間近でPARCOを見あげているようでもある。
こちらがガリバー化してしまいそうなこの遠近感の狂いは、一首が「まで」と時間の区切りでまとめられていることによって、距離だけではなく時間の遠近感のようにも倒錯されると思う。遠い未来のことのようだし、近い未来のことのようでもあるし、今起こっていることのようでもある。
PARCOは各地にあるけれど、三基あるのは渋谷区である。この歌を知ってから、渋谷で、あるいはメディア越しにあのPARCOが目に入るたびに反射的に「墓碑」と思ってしまうようになったのも、そしてそれによっていわれてみればたしかに渋谷が含有するディストピア的な夕照に反応してしまうようになったのも、わたしだけじゃないだろう。

 

『わたしは可愛い三月兎』の解説文で小池光は外連味のつよい歌を中心に取り上げている。それらの歌について、大半の歌人は嫌な顔をするだろう、と予想しながらも激励し、対極的に「歌人が安心する歌」の例として掲出歌を挙げている。歌人が安心する歌。ちょっと嫌な言い方である。作者の本領はあくまでよそにあり、掲出歌は秀歌性との折り合いが重視された、いわば妥協作なのだろうか。
仙波龍英の作風といえば、時事的な固有名詞(風俗、流行、事件など)が多いところが真っ先に目につくけれど、そのほかにわたしが感じた特徴はおおざっぱに言って三つあった。死が主題であること。人間以外の存在がもつ意思への怯え。それから、「首」というモチーフへのオブセッション。いちおうちょっと歌を引いておきます。

ひら仮名は凄(すさま)じきかなはははははははははははは母死んだ
七曜を海胆はしづかに凶事待つごとくつねにも棘と棲むなり
真夜中の植物たちはゆるゆると首をのばして絡まりあひぬ
真実をしやべつてしまふ首ひとつ玄関先に置きたしまひるま

この三つの特徴はそれぞれ相互に関係もしているだろうし、「首」は半ば短歌の話にもみえてきたりもするのだけど、全体的に生死の境界線を小さく裏返す雰囲気を形成している。生者が死者を糧にするのが食物連鎖の理なら、その逆のゾンビ的な世界観。そして、掲出歌はそれらの特徴の「全部乗せ」だと思う。PARCOという固有名詞ももちろんのこと、墓碑という死の気配、PARCOを墓碑と「なす」意思的な夕照、そして、「墓碑」は「墓」の顔的な部分=首だともいえる。削る、省略する、諦める、といった美徳に身を寄せたわけではなく、作者のありったけが乗せられることで逆に作者の思惑が沈みこみ、一首がふっと軽くなる瞬間、透明感を得る瞬間がこの歌にはあらわれているのではないだろうか。与えられすぎた歌が、作者のではなく歌自身の呼吸をはじめるような現象にはわたしは安心感とは真逆に不安を感じるけれど、その不安こそが短歌の上で目撃したいものでもある。