担架にて運ばれおらぶ父の声妹は録りいまだに聞かず

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』(青磁社、2017年)

 


 

歌集中の連作「父を運ぶ」のうちの一首。父の死が描かれた17首。

 

永井祐が角川「短歌」2018年2月号にこの歌集の書評を寄せている。さまざまな指摘に共感しつつ読んだ。例えば、永井は「岡崎の歌は個人の内側に入っていくような構えもありながら、ときどき多くの人の記憶に残りそうな愛唱性のある歌がぽんと出てくる。たとえばこんな。」と言って、

 

おばさんでごめんねというほんとうはごめんとかないむしろ敬え

 

を挙げ「完全な口語体で字余り・字足らず、句跨がりもなし。上句で言ったことを下句でひっくり返す。なんというか、文体に気むずかしさがなく、言っていることと同様にあけすけであることがこの歌にメタレベルの説得力を与えているのかもしれない」と言う。

 

この「なんというか、文体に気むずかしさがなく」に特に共感している(いや、共感といってももしかしたら、永井の言う「文体」や「気むずかしさがない」ということと僕の考えるそれにはちがいがあるのかもしれないが)。なかでも「なんというか」あたりのニュアンスはすごくわかる気がする。気むずかしさがない、というとちょっと取りこぼすものもありそうなのだけれども、とても素直に叙述する感じというか、韻律上の屈折がないというか、一語一語の意味やニュアンス(とそのぶつけ合い)とか助詞助動詞の機能や音、あるいは描かない余白の大小や発想の独自性などでは詩情をコントロールしていないというか。そういったコントロールがよいとかわるいとかいうのではもちろんなくて、とにかく僕はそのあたりをざっくりと指して「なんというか、気むずかしさがない」と思っている(くりかえすが、永井の言うそれとはズレているかもしれない)。

 

「父を運ぶ」を読んでおもしろいなと思ったのが、父への心情やスタンスの取り方がついによくわからなかったということだ。父の死は悲しいものだとか、個性的な父のもとで愛憎の混じった思いが表出しているとか、そういう肉付けを読者としてできないわけでもないとは思う。でもそれをした途端に、そういった肉付けは読者の恣意的な読み方でしかなく、歌そのものの言葉を置き去りにしているのではないか、と思えてくる。一首一首が「悲しい」とか「愛憎」とかいったラベリングを避けているように僕には思えた。

 

死に近き父をなにかに喩えんと吾は病室の外へ出てゆく
父がまだ死にたくないと暴れるか二月の吹雪いよいよやまず
モニターがゼロになるとき一斉にああ、と言いたりわれら家族は
産めなどと吾には言わぬ父なりき棺を雪の中へ差し出す
飼いていし兎を「今夜食べるぞ」と取り上げし父 今、墓にいる
いま産めば父を産むかも ひそやかに検査薬浸す六月の朝

 

どこかに暴力的なところがあって、常識からはちょっとはみ出すようなところがあって、……というような「父」は読みとれると思うのだが、その父へ心情、態度がどうにもはっきりしないように思う。「産めなどと吾には言わぬ」ということがこの人にとって、例えば「うれしいこと」だったのか「つらいこと」だったのか、僕にはわからない。「雪に差し出す」というところに、父親に対するすこし攻撃的な心情を読みとってもよいのかもしれないが、それが「産めと言ってほしかった」からなのか「産めと言ってほしくなかった」からなのか、わからない気がする。同様にして、モニターがゼロになるときの家族の「ああ」がどのような「ああ」なのか、悲しみなのかなんなのか、わからない。ここに悲しみや無念や驚き、あるいは喜び、といったものを読みとるのだとしたら、それはあまりにも読者の「一般常識」に引きつけすぎであるように思う。心情を読み解く手がかりがいまいち見当たらない。「ああ」という音声のみが問題にされている気がする。あるいは、父親以外の家族(もしかして父親も含めて?)が同じ心情・スタンスであったということのみを伝える歌、というふうに思える。「今、墓にいる」は、かわいがっていた兎をあんなふうにしやがって、でも今はあなたが墓にいるのだ、と復讐に近い気持ちで父を思っている、とも読めなくはないのだけれども、「今、墓にいる」はもっと中立的で、そこに価値判断を付加せず、ただその事実を淡々と述べている感じのほうがつよいと思うのだ。「いま産めば父を産むかも」も、そのような体感や想像が結局この人にとってどういう意味・価値をもつのか、どうにも見えてこない。

 

今日の一首。上に述べたような、語り手や歌の登場人物たちにとってその状況がどういった意味をもつのか、その心情を読み切ることができないという歌のいちばんが、僕にとってはこの歌だった。担架で運ばれるときのこの叫びは、病や怪我の苦痛によるものなのか恐怖によるものなのか、あるいは担架などに乗せやがってといったような気持ちからなのか、わからない。また、父の声を妹が録音するという状況も、異様で、父を突き放したところから観察するような感じはするけれども、妹がなぜそれをしたのかはわからず、しかも録るだけ録ってそれを聞かないとはどういうことなのか、わからない。妹が異様、とは言えるのかもしれないけれど、連作のなかでこの歌は「そういうときに叫ぶような父」を描いた、あくまでも「父」の歌として読めるし、録ること自体、そして聞かないこと自体には、疑いや引っかかりの類いをもっていないように思えるのだ。そういった事実がある、という報告にしか見えず、また、その報告からうっすらにじみ出るはずの感情さえ見当たらないと僕には思える。

 

この、疑いや引っかかりがあるようには思えない、事実の報告にしか見えない、というところに岡崎の歌の文体のありようが深くかかわっていると思うのだ。そこにあるはずの心情をむしろ引き算してしまう、というか。気むずかしさがない文体だからこそ、事実が事実のままあまりにもスムーズに差し出されてしまう。だから、「ごめんとかないむしろ敬え」といった、心情の大きさやその方向が濃くてわかりやすいときには逆に、それが永井の言うところの「愛唱性」といったレベルにまで到達してしまう、というふうに思える。

 

……気むずかしさのない文体、というものの中身をもっと理屈で言葉にしたいのだが、どうもうまく書けない(「フラット」とか「くびれがない」とかいうのとも違う)。

 

上に挙げた〈死に近き父をなにかに喩えんと吾は病室の外へ出てゆく〉は、「父を運ぶ」の一首めなのだが、連作を読み始めたときは「死にそうな父のことを見ていられず、逃げたいような気持ちがあるのかな」とか「思いがあまりにも複雑で落ち着かず、その思いを整理するための言葉を求めているのかな」などと思ったのだが、連作を読み終えたあとには、この人自身の心情自体が淡く、そのためにとりあえず父を描写する言葉だけでも得ようとした、あるいは、単に記録するためだけにそれをしようとした、というふうにも僕には読めたのだった。父の死をめぐる状況が穏やかでないということはストレートに伝わるし、冷淡だともまったく思わないのだが。