雪を踏むローファーの脚うしろから見ていて自分が椿と気づく

小島なお「三角形」(2018年3月発行「COCOON」7号より)


 

地面への視線、冬の空気感、からの自分を花に見立てる下句には中城ふみ子の〈凍土に花の咲かずと嘆く歳はおのれが花である外はなし〉をなんとなく思い出すけれど、中城の歌にあるのが意志なら、小島の歌にあるのは確信である。
下句に驚く前に、「ローファーの脚」から異変ははじまっている。「〇〇の脚」という言い方は「猫の脚」や「テーブルの脚」などのように胴体の下部を指すのが一般的で、「ローファーの脚」では話が逆か、あるいはローファーの底に小さな脚でも生えていることになる。細かいことをいうとローファーに収納されるのは足であって脚ではないので、意味的には「ローファーを履いた足」の省略だと考えてもなお「脚」ははみ出す。雪との接点からさかのぼるような語順によってごく自然に読まされるのだけど、ここには逆再生のような軋みが潜在する。
雪を踏むという動作はたとえば舗装路を歩くのとはちがって疑似的な地面から根を抜くような動作でもあり、いわば動物が植物めく場面ではあるかもしれない。そこに反応しているような上句の地面起点の発想は、すでに自分が植物であることに気づきはじめている。最終的に自分が椿だと確信するのは、見る存在である自分が動かないからだ。自分とちがってあの脚は動いているし、雪を踏んでいる。この瞬間にあの脚と自分は同じ種類のものではない、という違和感が、「動かずに雪景色のなかにあるもの」の最適解=椿を探しだしてきたのだと思う。
世界も正しいし自分も正しい。両立しようのないその二つを引き受けようとするときに要請される小さな論理の組み換えが、大きな波及になって自分に戻ってきたような一首。

 

小島なおの新人賞受賞作と第一歌集の共通のタイトル「乱反射」の、つまり二重の表題歌である〈噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし〉の下句にたじろいだ頃がなつかしい。この下句には、それこそ中城ふみ子に通じるような過剰な自己演出があるし、掲出歌と同じ一連でいえばわたしがあまり惹かれない歌〈学生のつづきのような日々を行く電車のドアにいつも凭れて〉などにその名残りはあるかもしれないけれど、第二歌集以降の小島なおの歌をこうして同人誌等で読むかぎり、〈まだ性愛を知らないわたし〉ではなく、〈噴水に乱反射する光〉のほうの続きを書こうとしているように思える。同連作では掲出歌のほかに〈チャンネルを回せばエイのひるがえり裏から銛に突かれるところ〉〈くらやみに銀の足場を組みながら脚立は立てり押入れのなか〉など、現実に即した名詞の硬度を保ったまま既存の論理をほんのりと脅かすような歌がある。いいじゃん、と思うと同時に、いま読み返す『乱反射』にはこういった性質の萌芽はそもそも見受けられて、小島なおの歌についてわたしはまちがった部分を拡大してきたのではないだろうか、あるいは、まちがった部分が拡大されてきたのではないだろうか、という不安もおぼえるのだった。

 

教科書にのってるようなオリオン座みつけたらそれは冬のうらがわ/小島なお