染野太朗


春の船、それからひかり溜め込んでゆっくり出航する夏の船

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年)

 


 

 

「春の船、」とまず来て、なんのことを言っているのだろう、と思う。どんな種類の、どんな大きさのものなんだろう、その船がどうしたんだろう、今どこにあるんだろう、それは現実のものなのだろうか、と思う。そして「それからひかり溜め込んで」で、そこになにが起こるんだろう、と思う。ひかりを溜め込むのは春の船なのか、それとも別のなにかなのか、すぐにはわからないまま読み進める。すると「出航する夏の船」と示される。ここで一気に、海と港が現れ、ずっと先をすすむ春の船を追いかけるように、でもゆっくりと港を出てすすんでいく夏の船が見えてくる。海と港と二隻の船と、その船同士の位置関係がいっぺんに見えてくる。歌の景にいきなり奥行きが生じる。動きがでる。ひかりを溜めて、ひかりにまみれて進んでいく船が見える。太陽からの光は海にもあふれている。そして、ああこれは春と夏とそして春から夏への移り変わりを喩的に表現した一首なんだなとわかる。季節をあらわすような船なのだからきっと大きいのだろうな、と思う。春の船のほうが溜め込むひかりはすくなく、うすい。たくさん溜め込んだのが夏の船。それぞれの船が海のおもてを分けながら、そこに白いすじを引きながらすすむのが見える。

 

例えばそのように読んでみる。どのことばも抽象度が高く、かといってそれが「具体」と対比されるような「抽象」かと言えばそうでもない。読者それぞれが、具体的なものではなく、しかも同時に、手触りのはっきりとしたイメージをもつことのできる歌だと思う。

 

それからこの一首は、実は現実の季節からは解放されたところに立っている歌なのだと思う。春や夏を喩的に詠んではいるけれども、夏の歌でも、もちろん春の歌でもないということ。季節という大きないとなみを、季節が存在しないような地点から俯瞰して描いている、というか。しかも、俯瞰といっても、淡々としているとか冷静だとかいったこともない。だからだろうか、僕はこの歌がかなり好きで一年をとおしてよく思い出すのだが、春にこの歌を読めば、この「夏の船」は読者としての自分を追いかけてくるようにも感じられるし、あるいは秋に読めば、春の船も夏の船ももう自分より先に行ってしまったもののように感じられる。冬に読むと、どこか別の国では今まさにこのような景が見られるんだろうな、などと思う。ちょうど今ひかりを溜め込んでいる最中かな、などとも思える。〈今ここ〉で現実の季節を生きる僕たちそれぞれの状況に寄り添ってくれるような歌だと思う。

 

もうすこしことばの細部を見ておきたい。「ゆっくり出航する」という中の、促音「っ」のふたつが中心となって、夏の船の速度と重さを音として支えているように感じる。いかにもゆっくりと、重たく、そして徐々に速度を上げていく。「溜め込んで」までから「ゆっくり」以降へと、この促音とそれを取り巻く音、そして「ゆっくり」という遅い速度と「出航」のイメージによって、質感が変わる。景が決まる。船がいかにも動き出す。三句めの五音のあとには、短歌のリズムとして大きめの間(ま)を感じることができるが、その間と「溜め込む」ということ自体が、いかにも重なる。溜め込むための「間」として感じられる。また、「それから」という語もとても大切な役割を担っていると思う。この一語が、一首における景の構築の効率をうんと上げている。この「それから」が、春の船と夏の船の順番・位置関係、ひかりを溜め込むのが夏の船のほうであること、夏の船だけでなく春の船も「出航」という動きをしていたこと、などをすべて伝えているのだ。意味そのものは軽く、そして音はたっぷりと四音も使っている「それから」が、うすい影となって、それでもしっかりと歌の景と動きを支えている。そのこと自体が一首に、韻律上も意味の上でも、たっぷりとした余裕を与えているように思う。

 

冒頭で、あえて上の句から順番に読むようなことをしたのは、結句の「夏の船」を読むまでなにひとつ、景やその質感が決定しないような構造をなんとか説明したかったから。最後まで読んで、そしてまた初句にもどって「それから」を含めた全体のことばを見通してはじめて、景の構成が見えてくる。奥行きと動きが出てくる。ひかりが太陽の光であるということも、「夏」ということのイメージを一首に引き込むことによって、最後になってわかる(もっと抽象的な「ひかり」も含んでいそうだけれども)。歌のことばを読むという体験そのものにおいてもたいへんに鮮やかな印象を残す一首だと思う。

 

出会いからずっと心に広がってきた夕焼けを言葉に還す/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』