コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』(沖積舎:2001年)


 

「西荻窪」と「荻窪の西」はつまり同じ場所のことを指しているけれど、歌に出てくる地名は二つ。Uターンを指示する矢印が結句についているかのように、歌を読む目は西荻窪から荻窪を経て西荻窪に帰ってくることになる。そのせいだろうか、西荻窪と荻窪のあいだに世界のすべてがあるような、二駅しかない路線を終点から終点まで往復しているような気分になる一首である。何かの西、というときに想起される茫漠とした広さに対して荻窪と西荻窪の隣り合わせ感、狼煙が連絡する遠さに対してコーヒーの湯気が目に入る近さ、この歌には距離感が折りたたまれている。

 

この歌の下句は事実である。西荻窪、荻窪はともに東京都杉並区の地名で、中央線の西荻窪駅は荻窪駅のひとつ西側にあたる。中央線は東西をまっすぐ結ぶ直線的な路線なので、結びつきが可視化された位置関係だ。たとえば「南阿佐ヶ谷駅」は位置的には「阿佐ヶ谷駅」のたしかに真南にありながら、この二つは路線が違うので一括りにしようとするとある種の越境感が発生するのだけれど、西荻窪と荻窪の二つは人々の生活が太くつないでいる。「西荻窪が荻窪の西にある」ことは、「東京駅が東京にある」くらいにたんたんとした事実だ。そして、それはこの歌にとって重要なことである。
これが事実であることにどのくらい親しみがあるか、というところは読者の居住地域などによっても大きく差があるだろうけれど、この下句が事実であること、なんというか「西東三鬼は東三鬼の西」みたいなことを言っているわけじゃないことはおそらく共有されると思う。この歌の美しさが教えてくれるのは、歌には事実が詠われるべきで、発見やトリビアが詠われるべきではないということである。事実がもっとも無意味だからだ。
短歌は事実を詠うときに輝く、というシンプルな摂理が、幻想的な作風を持つ作者からこうして繰り出されるのは意外なようで必然でもある。「西荻窪は荻窪の西」のような事実が意味ではなく事実に留まっているのは、この歌の場合「星びと」という抽象的な存在がはさまれることによって下句が個人的な所有から手放されているからだ。この「星びと」は「地球という星に住む人」、つまり普通の人間たちのことでもあるだろうし、天体に関係する架空の存在のことでもあるだろう。

 

掲出歌の入っている第一歌集の表題歌は〈風鈴を鳴らしつづける風鈴屋世界が海におおわれるまで〉、第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』の表題歌は〈眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)〉、つまりこの二冊に関してはそれぞれの歌集名をある職業が担っている。この二首に共通するのは、職務をまっとうする「〇〇屋」がその職務からはねじれた結末へ向かうことである。この「〇〇屋」たちの二重性は「星びと」と共通するものがある。そして、ここに「歌人」という職業(あるいは作者の佐藤弓生は「詩人」や「翻訳家」などの職務も持つけれど)への矜持と身軽さを垣間見ることもできるかもしれない。