染野太朗


母死なすことを決めたるわがあたま気づけば母が撫でてゐるなり

川野里子「Place to be」(角川「短歌」2018年4月号)

 


 

先日、川野里子の歌集『硝子の島』を取り上げた。そのときは歌集中の〈さうめん流しひゃーとさうめん流れゆきわれとわが母取り残されぬ〉を読んだが、この歌の構造を中心に読んだだけで、内容についてはほとんど記さなかった。ただ実は、歌集には〈認知症にこころ抜けゆく母をりて雛人形のやうな目をする〉〈老人ホームは隈なく明るしいくつかの孤独なからだ洗はれながら〉〈徘徊する母のうしろをついてゆく手摺り途切れて途方に暮れる〉といった歌が含まれており、この「取り残されぬ」ということが、衰弱していく母と、その看取りに際しての作者の心情・体感のことだとわかる。『硝子の島』の大切な主題として登場する母。その母の死がこの「Place to be」28首に詠まれる。

 

『硝子の島』における歌の一首一首は、それぞれ独立しながら、連作のなかで、あるいは歌集のなかで互いに緊密な関係を保っている。

 

というふうに僕は先日記したのだが、「Place to be」においてはその「緊密な関係」というのが歌集で読んだ印象よりもさらに強く深くなっていて、たった一首を取り上げて何かを語ることがほとんど不可能に近いような構成になっていると思う。ところどころに挿入される詞書も連作を力強く牽引しており、読者として読むべきポイントは多岐に渡る。例えば、ごくシンプルでわかりやすい例として、連作の5首目と6首目を引く。

 

ひと匙を食べて目瞑りふた匙を呑みて苦しむ命見てをり
「うれしいなあ」
椅子、枕、匙もほんのり窪みをりこんな形かいのちといふは

 

「うれしいなあ」は詞書(連作においても「 」が付いている)。食べること自体に苦痛が伴うほど嚥下機能等が衰えている、とまずは読めばよいのだと思う。衰えた母に接することが、その衰えゆえに「命」を意識させる。そのときほとんど直感的に「窪み」を「いのち」の形ととらえたのだろう。「うれしいなあ」は、母の言葉だろうか。食事をとることの喜びか、元気だった頃の(食事の際の)母の言葉か。それともまったく別の何者かの声だろうか。この詞書の、連作におけるどことなく悲しくかつやさしい印象がおそらく、「ほんのり窪みをり」というそのやわらかな曲線の印象と響き合ったのだと思う。苦しむ命、「うれしいなあ」、ほんのり窪みをり……これらのどれかひとつが欠けてもおそらく、母の命に対する作者の直感・認識は連作において成り立たない。そういう意味での「緊密な関係」というのを僕は感じている。

 

連作9首目から、今日の一首も含めて、次のように続く。

 

延命処置断るはうへゆれながら傾く天秤 疲労のゆゑに
レントゲン当てられしばし息とめてゐるなり明日死ぬ母が
「こんどどこにいくの?」
転院し転院し隙間見つけゆくスプーンと赤いマグカップ持つて
母死なすことを決めたるわがあたま気づけば母が撫でてゐるなり
「しょうがねえなあ」
散弾銃あびながら銀杏散りゆけり散つても散つても銀杏は尽きず
「しょうがねえなあ」
チューブ一本抜きて一年もう一本抜きてひと月いのち剝ぎゆく

 

「こんどどこにいくの?」とふたつの「しょうがねえなあ」は上の「うれしいなあ」と同じく詞書。歌の内容はあえて説明せずともあきらかだと思う。延命処置を断ろうとする。そこに、看取りに伴う疲労が意識される。単に「傾く」ではなく「ゆれながら傾く」というところに葛藤があらわれている。「緊密な関係」ということですこしこまかく読むと、「こんどどこにいくの?」はくりかえされた転院を意識させながら、連作の最後まで読んだときには、ついに「こんど」はなかったのだということ、つまりこの次の転院はなくそのまま母は死を迎えたのだということを強調するものとして再度浮上してくる。伏線、と言ってもよいのかもしれない。そしてこの詞書の添えられた歌には、先ほどの歌にも出てきたスプーン(匙)が詠まれている。もちろん先の歌の匙とはモノとして別のものかもしれないが、僕はどうしてもここに「いのち」を意識してしまった(匙とスプーン、語自体が違うのだから、まったく異なるものとして扱うべきなのかもしれないけれど)。小さな「いのち」が転院をくりかえしながらさらに小さくなっていくようなイメージをももった。その「いのち」が終わる場所に添えられるマグカップの「赤」が目に痛いような気さえしてくる、と言ったら感傷的に過ぎるだろうか。散弾銃の歌は、自分の決断によって死んでいくはずの母に、その決断によって苦しんでいる自分をむしろ慰められるときの(しかもその事実を母自身はきっと知らない、だからこそわざわざ詞書に「こんど」という未来が語られているのだろう)、その心情のありようを語っているととらえてよいはず。これを、罪悪感、とだけ呼ぶにはこぼれおちるものが多すぎるだろう。散弾銃をどれだけあびても銀杏は尽きない。いつまでも散弾銃をあびつづける。

 

次回に続きます。