峠から無限にひろがる星空に吸えないタバコをすわされそうで

吉岡太朗『ひだりききの機械』(短歌研究社:2014年)


 

歌詠みに仏性ありやお互ひのうんこ見せ合ひ評までもする

短歌とは排泄物のようなものだ、という開き直りが潔い吉岡太朗の作品には、実際には、自らが排泄物であることへの抵抗感、衒いや照れがつよく出ている歌と、排泄物自体の生理に真向かっている歌とがあると思う。歌集でいえば圧巻の第二部で両者はいちばん鮮やかに拮抗する。第一部はちょっと照れすぎ。そして、掲出歌は第三部からの引用なのだけど、第二部では前面に押し出される「人体とは一方通行の管である」という感覚が、第三部では人体の外へ拡張されてときどきあらわれる。そのバリエーションをおもしろいと思う。掲出歌のほかには〈夜明け前プラットフォームはいくつかの記憶と直につながっている〉〈後ろから乗って前から出るまでの市バスは長い一本の橋〉など。
掲出歌、峠という遮るもののない場所から見あげる広い星空すら、タバコという管っぽい通路を通して把握されている。ここでの「吸えない」は「喫煙の習慣がない」ということだとは思うのだけど、第二部の〈それでもわしは叫ぶんやから無い口のかわりに穴からひり出している〉などを経験したあとで読むと、あるいはのちの第四部に出てくる章題である「れきしてきいきづかい」にある息遣い=吐くほうの息に象徴される文体を思うと、吸うための口がそもそもないのだろう、とも思わされる。
掲出歌にはすぼんでいる部分が二ヶ所ある。星空の起点として見立てられている峠というロケーションと、広い空から小さなタバコへの視界の収束。その二つのすぼみが峠に立つ人物の上で重なるとき、ここで星空が吸わせようとしているタバコは星空の広さを吸いこむストローのようなものだと思う。だけど、「吸えないタバコ」はここにはないタバコだろう。一首で錯覚されかけた星空との一体感は、見せ消ちのタバコが消えるとともに消えるけれど、読後には星空の印象よりもそのまぼろしの通路のほうが残る。