宇宙から見れば今死ぬ吾の手が今死ぬ母の手を握りをり

川野里子「Place to be」(角川「短歌」2018年4月号)

 


 

前回からの続きです。

 

散弾銃あびながら銀杏散りゆけり散つても散つても銀杏は尽きず

 

この「散弾銃」の喩はさらに、一連の16首目からの、

 

「あしたどこいくの?」「ひとり?」
赤児抱き眼鋭く川渡る民ありて渡るあとからあとから
わが場所はあのひとの居場所奪ひたり泥より吾を凝視する女(ひと)
だれもだれもだれも救命ボートに伸ばす手が群がり白し桜花のやうに

※( )内はルビ

 

という三首に引き継がれているにように思う。例えば、ピューリッツァー賞の沢田教一の写真、ベトナム戦争で戦火から逃れるために川を渡るあの母子のイメージをとらえるのは、行き過ぎだろうか。つまり戦争のイメージさえ引き寄せ、なんとか「いのち」を繋ごうとするひとりひとりの行為やそれを意識するからこその自らのうしろめたさ(居場所を奪われた女に見つめられている。この「女」は母だろうか)を表出しているとは読めないか。さらに言えばこの「救命ボート」は、この連作の2首目、

 

昼月はだれが乗ること諦めし救命ボートであるかただよふ

 

から、あきらかに引き継がれているのである。連作の時間軸上、「散弾銃」(付け加えておくが、これは日の光の喩であるかもしれない)という発想の前に置かれるこの2首目は、「だれが」から「母が」、そして「だれもだれも」が乗る(乗りたがる)、ということへと至るプロセス、すなわち、「いのち」を保ちたくない者など本来どこにもいないのだ、という拍子抜けするほど当たり前の思いを、それでも噛みしめざるをえないということ、あるいは「諦める」ということさえさせずに今まさに「いのち」を終らせようとしている自らを刺す一首として、連作を遡って機能するのだと思う。これを「伏線」ということばで片付けてよいものかどうかはわからない。

 

さて、僕が言ったその「緊密な関係」はまだまだこれだけに終わらないのだが、さすがに長くなりすぎるのでここまで(本当は「詞書」についてのみ考えるようなこともしてみたいのだけれど)。問題はこのような、歌同士の複雑な関係そのものが、僕たち読者の「読み」にとってどのような意味をもつのか、ということだと思う。

 

今日の一首には詞書がある。

 

「もう 帰ろう」
宇宙から見れば今死ぬ吾の手が今死ぬ母の手を握りをり

 

宇宙(の営みの時間)との比較で人間という存在のちっぽけなありようを一首は述べる。握る力とその思いのたしかさに比して、なんとちいさな存在感だろうか。むなしさや自嘲もただようが、しかし、握る時間が一瞬であるということの自覚は、むしろこの瞬間への切迫した思いを際立たせているようにも感じる。「もう帰ろう」、は母の言葉か、あるいは自らの言葉か。それともまったくなにか別の存在のことばか。この詞書のあとには、例えば「どこへ?」というような問いかけまで聞こえてきそうだ。施設や病院を出て家に帰る、と現実に即してこれをとらえ、しかし一歩進めて、それが、死んだ者の魂が帰る場所、というふうに解釈し直すこともできる(もちろん、個々の宗教観等によるものだけれど)。そうしたとき、この詞書とともにある一首が「いのち」の根源としての「宇宙」を描くのもごく自然のことのような気がする。

 

「また会おうな」
母の母その母の母あつまりてさやさやと愛づ老衰の母

 

匙やコップ、そして宇宙、さらにもしかしたら戦争、といったことまでが、母の死をめぐって連想される。それらがすべて母の死の表現となってしまう。〈今ここ〉にあるものだけでなく、作者に蓄積された、時空を超えたあらゆる総体が、母の死に真向かっている、という印象を僕は受ける。『硝子の島』の回で最後に取り上げた、

 

手摺りに縋りゆつくりと歩みゆく母はやがて吾なり吾が彼方なり/『硝子の島』

 

は、この「母の母」の歌と並べて読みたい一首だ。過去から未来へ、大きな一本の「いのち」の連なりが、未来をも抱き込んで意識されている。それにしてもやはりこの「また会おうな」も、誰が誰に対して言った、どこから聞こえてきたことばなのだろう。

 

今目の前に触れている「母の手」(あるいは「匙」や「赤いマグカップ」)から「宇宙」まで、その振れ幅のなかにこの一連は存在する。ことばがことばを呼び、一首がべつの一首とかかわり、思考が思考を呼び、それが母の「いのち」ということを軸にしながら、そして母に対する罪の意識やみずからの疲労といったことを濃くにじませながら、そのことばは思考を手放さない。あらゆるものごとが母の「いのち」に対する考察へとつながっていく。この連作は、〈今ここ〉にあって母を見つめながら、ひとつの「いのち」が抱える時間と空間の幅を、内容の面でもことばの面でも(つまり、ことばとことばが一首の枠組みを超えて関係しているということ)提示している。そこに「だから命はかけがえのないものだ」などといった感想を付け加えるつもりはまったくない。主体がかかえる罪悪感のようなものに寄り添うつもりもない。一連の示す思考や感情そのものに僕が共感するかと言ったらそれは別の話だ。ただ、ことばが連作を行きつ戻りつしながらふくらみつづけ、直線的な時間軸や空間の限定をゆるめ、それによって28首が総体として「母の死」を語るこの方法そのものに僕は、人の思考としてのリアルを見るし、一首が一首を呼ぶ、あるいはことばがことばを呼ぶ、その呼び方と呼ぶ理由を読みほどいていく中にしか、母の死をめぐる作者の立ち位置は見えてこないような気がしている。悲しく、どこか弱々しく、そして同時に、粘りづよく迫力のある一連だった。