平岡直子


足裏より夏来て床に滴りしすいかの匂いまばゆい午後だ

天道なお『NR』(書肆侃侃房:2013年)


 

Dearest …と書き出したのち停滞す絵葉書の鳥飛び立てぬまま

『NR』を読んでいてこの歌にふと足を止めたのは、この歌集の歌たちは見た目以上に飛び立ちたがっているのではないか、という印象と重なったからだ。Dearest、最愛のなにか。作者にとって大切なものとして歌集を通して読みとれるのは、結婚であり、子どもであり、仕事であり、そしてそれらを大切にしようとするときに生じる摩擦だ。そういったテーマに等身大にアプローチしている歌でも、歌がどこか等身大におさまらず、言葉がむずむずと動いている気配に歌集全体を通して惹かれた。なにかを書こうとした場所にあらかじめ描かれているものこそを飛び立たせるべきなのではないのか、という正しい躊躇いがこの絵葉書の歌にはあらわれている。

 

飛び立ちの気配を感じたのはたとえば掲出歌。この歌には二つの時間の単位がうっすら重なっている。ここに書かれているのは「夏の午後」ではなく、「夏」と「午後」だ。実際に「足裏から夏を感じる」ことと、「すいかの汁が床に滴った」ことはたまたま同時に起こっただけの別々のことなのだと思う。そして、それは歌にとっての言葉と同じことでもある。ほんとうは作者の都合なんてしらない短歌にとっては、あらゆる歌における言葉の組み合わせはたまたま同時に置かれただけのものだ。
たまたま同時に起こった二つのことは交流する。「来て」と「滴り」、上二句に詰まった動詞の距離の近さは、足裏におとずれた夏が同じ足から床に滴っているように錯覚させる。ちょっと循環器系っぽい。足裏から入ってみえない体内を一周して出ていく夏の滴り。
「滴りし」がすいかの汁のこととして展開したあとの下句でも「匂い」と「まばゆい」の二つのことが同時に起こる。「すいかの匂いまばゆい午後だ」は「すいかの匂いがするし、(夏特有のつよい日射しなどが)まばゆい午後である」でもあるし、「すいかの匂い自体がまばゆい」でもあるだろう。光と匂いなど、説明しようとするとそれぞれの要素に分割せざるを得ないけれど、感覚的にはなにか不可分なものとして複数の刺激を認識する瞬間が人にはあると思う。その感覚が、この下句では小さな助詞抜きによって再現されているのではないだろうか。
作者には作者の都合があるし、歌には歌の都合がある。それらがお互いを抑え込まずに不思議と連動しているようなこの歌を美しいと思う。

 

すれ違う車輛に霞む二十代 シャープペンシル握りなおせり/天道なお