石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出づる春になりにけるかも

志貴皇子『万葉集』

 

古典和歌には、そう明るくない。
でも、ちょっと大げさだけど、この歌を思ってなら死ねる、という歌がいくつかある。
理由はよくわからないのだが、近現代の歌に、そう思うものはない。スゴイと思うものはあるのだけれど。

千年以上の時間とともに、押してくるものがあるのか、あるいは、日本人とはどういうものか、というかなり説明しにくいところに関わってくることなのかもしれない。

 

冒頭の歌もそんな一つ。まだまだ寒いが、朝仰ぐ光の芯がつよくなってきた、と感じるような時期、毎年、この歌を思い出す。

実をいうと、本格的な春は苦手。どこか疲れやすいし、花粉症は始まるし、さらには、ものの生命力に負けそうな気がする。

もう冬のものではない、と感じる光のあかるさのなか、この歌を思い浮かべて感じる春が一番。とびきり。

 

清冽な水が流れ落ちるそばに、蕨のまるい、かわいらしい頭がのぞく。

水音も、色彩も、光や空気の感じも、むさぼるように味わう。

 

命が萌え出す春のイメージが、心の底をしっかりと強いものにしてくれる。

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