染野太朗


妻の傘にわが傘ふれて干されゐる春の夜をひとりひとりのねむり

大松達知『フリカティブ』(柊書房、2000年)

 


 

同じ歌集に、

 

かへりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき

 

という一首があって、こちらもとても有名だ。僕がこの一首を読んだのはたしか二十歳そこそこの頃で(なにで読んだのかは忘れてしまった。歌集で読んだのではなかった気がする)、ここまで正直に言えるものなんだな、短歌ってすごいな、でもこの歌を「君」が知ったらなんだか気の毒だな、などと思ったのをよく覚えている。今考えるとあまりにも素朴な感想だ。そして同時にとても共感したのも覚えている。好きで会っているのだけれどもべつに四六時中会っていることが望みではなかったり、「君」とはかかわらないところや「君」がいないところに、あるいは、「君」とのかかわりがあったからこそそのあとにたのしみが存在したりという感じはすごくわかると思った。だからこそ「ここまで正直に言えるものなんだな」といったように驚くことができたのだと思う。それから、自分のなかにこのような「たのしみ」が存在するのを見いだすというのも、自分をちゃんと見つめていなければ実はできないことだよな、と当時は特に思った。正直、というだけの歌ではない。

 

その後の大松には、例えば、

 

あなたには(くつしたなどの干し方に)愛が足らぬと妻はときに言ふ/『スクールナイト』

 

といった、「君」ではなく、「妻」と自分との関係の歌、つまり「夫婦」であることをまず枠として置きながらの歌が目立つようになっていったと思う。そこに恋の歌という感じはあまりない。それから大松と言えば、今ならば育児の歌が有名だし、学校、野球、言語、旅、酒の歌ならばいくらでも思い起こすことができるけれども、恋ということを意識させる歌はそもそもすくないのではないかと思う。でも僕は大松の「君」との恋の歌がわりと好きで、その二十歳そこそこの頃には、気恥ずかしいような思いもありながら、何度も読んだ記憶がある。

 

ところで、僕は今なにげなく「恋の歌」などと言ったけれども、もちろんこの「君」というのは、男女問わず「友人」であってもかまわないし、それから、今、なんらかの関係を指してそれを軽々しく「恋」とか「恋愛」などという語に回収するのは、ちょっとためらわれるときもある。……と付け加えずにはいられないくらい、僕の「関係」ということに対する感性やら知識やらは〈時代〉と呼ばれるようなものの影響を受けながらずいぶんと変化したり揺らいだりしているのだなと思う。そのあたりが揺らいでいるときには、ラーメンのこの歌を「恋の歌だ」などと言う根拠は実はどこにも見当たらないのだ、というようなことも思う。

 

上に僕は「気恥ずかしいような思いもありながら」と言った。大松の「恋」の歌は、むしろ「自分は自分、あなたはあなた」といったような、思いのベタつかなさにおいて取り上げられることが多かった気がするのだけれども、僕もそうは思いながら、でもよく思い返すと、そして今改めて読むと、印象としてはその真逆のものも同時に感じていることに気づく。このラーメンの歌においては、旧仮名遣いであることや「わかれき」という語の思いがけないつよさが、ドライさよりもちょっと湿った情感のほうを語としてかもしだしている気がするし、また、とりたてて「たのしみとして」と言っているあたりにはわずかながらも露悪的な感じがにじんでいて、一首の内容そのものとは別に、どこか感情や情感そのものの濃さをみちびいているように思える。韻律を含めた一首全体のたたずまいもとても落ち着いている。

 

今日の一首。この歌の核も、ふたりの関係がどんなものであれ眠るときには「ひとりひとり」なのだということの自覚と充実にあるのだと長く思っていた(詳細は省くが、歌の構造上やはりこれはひとりひとりであることの「さびしさ」ではないと僕は思う)。でも、傘とはいえそれらが触れ合っていたり、「春の夜を」というふうにしっとりと空気感を出していたり、「ひとりひとりのねむり」の音と調子にちょっとねばり気があったりといったところには、やはり乾いた感じではなく、むしろ「恋」の歌としてのたたずまい、湿り気のある情感のほうを今はまず感じてしまう。「妻」とは言っていても「君」が見えてくる。その結果として印象に残るのは「ひとりひとり」よりも「わが傘ふれて」。照れのなかに「妻」への思いがあたたかくにじんでいる、というか。

 

「ひとりひとり」のドライさから始めて、でもやっぱりそれはすこし違うぞと思い直して、その上でようやくこの「ひとりひとり」は生きるのかもな、とも思う。相手をふかく思いながらの「ひとり」ということの充実が見えてくる。それは実は「ひとり」ではない。あくまでも「ふれて」いる。

 

ひさしぶりに大松の初期の歌を読んで、大松のこの(仮名遣いや文語助動詞のありようも含めた)文体のなかにある「ひとりひとり」や「たのしみ」を今どう読むかというあたりに、今のこの〈時代〉や、ここ20年弱(『フリカティブ』の刊行からそれくらい経った)の短歌の世界の詠みと読みの移り変わり、そして読者としての自分のありよう(とその移り変わり)が、わりとはっきりと映し出されるような気がしたのだけれども、まあ、それはちょっと雑な発想かもしれない。

 

今日の大松の歌を僕が今はじめて読んだとしたら、いったいどんな読みをして、どんな感想をもつのだろう。