平岡直子


カバに手を掛けてるヒトが穴だった顔はめパネルやればよかった

山川藍『いらっしゃい』(KADOKAWA:2018年)


 

背後にたったひとつの顔がみえるべきものらしい「短歌」のなかで顔の部分が穴なのは象徴的なことだ。動物園を訪れた連作の最後に置かれるこの歌は、連作中で動物の生態に照らされることで「社会規範に従う人間」の姿を問いながら(社会規範との軋轢は歌集全体のテーマでもある)、そこにどうにかおさまろうとしつづける主人公が最後にそこからはみ出せた可能性を振り返る印象的な一首。連作中に〈成人として期待されてるまとも度の高くてキリンの骨さわれない〉という歌があるけれど、顔はめパネルもまた「まともな成人」のすることではないからだ。「人間」であるために、「カバ」と同列の生き物の種としての「ヒト」になれない。作者の顔は「穴」とはべつの場所をうろついている。人間とヒト、顔があるべきところからずれた顔、そのあいだの狭い場所に山川藍の歌がある。

 

今日はもう閉店ですがどの日にもマンガにできる瞬間がある
辞めたさの話をすればむちゃくちゃにウケられているわたし、噺家

「カバに手を掛けてるヒト」のパネルも、静止画がある物語性を持つという点で漫画に通じるところがあるかもしれないけれど、歌集中の歌を全体的に漫画っぽいと思う。漫画にもいろいろあるけれど、連想するのは四コマ漫画。短く、起承転結がくっきりしている。そして「無職の兄」に代表されるように登場人物が簡潔な線で戯画化されている。
登場人物につよいキャラクター性をもたせる作風の短歌、歌集に見覚えがないわけではないのだけど、この歌集にびっくりするのは作者らしき存在までが同じ作画で戯画化されていることだ。までが、というか、そういった歌が数としてはいちばん多い。内容がコミカルな歌、キャラの濃い登場人物が出てくる歌は、たいていの場合、正気の語り手がいると思うから安心して読めるし、正気の語り手の存在がつまらなさでもあったりもするのだけど、語り手がこちら側にいないとなると話が違う。この歌集の私性、作者と主人公が一致している気配は、話がどんなにおもしろくても対岸のフィクションとしては読めないように読者の足元のバランスを崩させる力として働いている。
起承転結できっちりオチがつく作りや登場人物の劇画化は、サービス精神であるとともに防御の役割も果たしているのだと思う。読者に読者としての一線を踏み越えさせない。そもそも『いらっしゃい』という歌集名があらわしているようにホスピタリティに溢れたこの歌集のホスピタリティは読者にとってかならずしもホスピタリティではなく、読んでいると「それ頼んでない」と絶句してしまう瞬間がよくあるのだけど、それと同時に感じるのは、この歌たちのほうも読者であるわたしに何も頼んでこないということだ。「噺家」という自己認識が正しいのは、「お笑いコンビ」などと違ってひとりでボケとツッコミの二役をこなすからだ。
ふたたび掲出歌に戻って別のたとえ話のなかに置くと、一般的な歌を読む作業はしばしば顔はめパネルから顔を出すことに似ているかもしれない。読者のために用意されたすき間に自分を代入することで、そこに描かれているカバに疑似的に触れるのが短歌を読むことなら、掲出歌において達成されなかった顔はめは、歌に読者の仕事が残されていない点で歌集を通してやっぱり達成されないのだと思う。作者が顔を出すでもなく、読者が顔を出せるでもないアンタッチャブルな穴が掲出歌には空いている。そのまわりをめまぐるしく人が、つまり社会が動いている。