染野太朗


おびただしき水仙の白咲かしめてケアホームの庭 愛は片寄る

大井学「しばざくら」(「短歌往来」2018年5月号)

 


 

「しばざくら」は10首からなる。

 

島田修三『短歌入門』(池田書店、1998年)という入門書が、

 

おぼえなきアンモナイトが本棚の奥より出で来 本は海原/佐佐木幸綱『瀧の時間』

 

を詳細に読みながら、短歌と散文の違いや短歌の韻律について解説している。これがとてもシンプルでわかりやすく、歌の「読み」の基本を思い出させてくれるので、僕は今でもたまにこの箇所をひらいて読む。ごく一部だが、以下に引いてみる。

 

〈「本は海原」という結句は、われわれが日常的に馴れている散文の表現とはかなり異なっていますね。/散文で表現すれば「本とはあたかも海原のようなものだ」ということになるでしょう。ところが、短歌では「あたかも~のようだ」などときちんといわなくとも、シンプルな表現で十分に散文と同じ情報量を読者に伝えるのです。/(中略)アンモナイトという貝は人類出現以前のはるか大昔に滅びさったが、海原は今なお豊かな生命力を秘めてわれわれにさまざまな夢や神秘をあたえてくれている。本とは、あたかもそんな海原のようだ、というところまで意味は広がります。/(中略)「本は海原」というふうにビシッと歌いすえられて一首が終わると、読者はそうした素朴な外見的類似(=「本棚にならぶ本の物理的な量が巨大な水をたたえた海原と似ている」という類似。染野注)による連想を踏み台として、おのずから本と海原とのさらに深く豊かな類似性に想像力をはばたかせることになる。〉

 

今日の一首の結句は、「本は海原のようなものだ」といったような「比喩」ではなく、「愛は片寄るのだ」というおそらく事実としての断言だが、やはり「本は海原」というくらいのインパクトとひろがりをもって示されているように思う。「愛」が「片寄る」とはどういうことなのか、想定できる内容が大きくてしかも多岐に渡っているからこそのインパクトもあるのだが、佐佐木の歌が「アンモナイト」を提示したあたりですでに「海」をにおわせているのに対して、大井のこの歌は四句目までに「愛」や「片寄る」に連なるような語・発想を示しておらず、だからこそこの結句には余計につよさを感じるのだとも思う。不意に切っ先を突きつけられたような、そういう驚きをもってこの結句と出合うことになる。

 

例えば「ケアホーム(グループホームだろうか)それ自体は、高齢者をいたわり、守る場所とも考えられる。そしてそれを包み込むように水仙の白がまぶしい。けれども「いたわり、守る」ということは、ケアホーム以外では可能ではなかったのか。それ以外の場所でも可能なのではないか。こんなふうにある一部においてしか成されないものなのか。ケアホームに行ける者しか得られないものなのか。そして、ケアホームが示せるような「愛」以外は「愛」ではないのか。ほかにも「愛」と呼べるようなものがあるのではないか」といったように、「愛とは何か」「片寄るとはどういうことか」ということを軸にして読みを展開することができる。「偏る」ではなく「片寄る」と表記されているから、物理的な面での「片寄り」がまず読者として意識でき、そうなるとこの片寄りはまず「水仙」が「ケアホームの庭」にばかり群れ咲いている景そのものを指しているのだろうな(あるいは、他の色や花がなく、白だけ・水仙だけであることを指しているのかもしれない)、と読める。観念的・抽象的に「愛」について考える前に、実景としての「水仙」を見、その咲く様子が局所的であることを認識し、それがケアホームをめぐる「愛」を連想させ、その結果この結句が生じた、というような流れ。それから、具体的にはわからないけれど、この人にとって「愛は片寄る」と表現したくなるような、「ケアホーム」とは関係のない個人的なかつての出来事が思い出されているのかもしれない、と想像することもできる。そして実はこの「愛」ということも単に「水仙の白」を重ねて読めばよいものではない。「おびただしき」とある。どこかおぞましいような表現だ。「片寄る」ということがいびつなものとしてすでに初句で示されている。

 

今日の一首は連作の9首目。4首目から次のように歌が並んでいる。

 

二本松(しってる?)(どこそれ?)春の陽の(いま何シーベルト?)てらす安達太良
帰りたい町はおもいでうらうらの除染はげ山なおみどり萌ゆ
もう顔は忘れてしまったご近所のばあちゃんの庭しばざくら咲く
ばあちゃんと声によぶとき縮緬の「なじょしたぁ」という春の気はある
ばあちゃんとよばれ笑いしばあちゃんに子はあらざりき空き家かたむく

 

原発事故と「帰りたい町」(これを短絡して「故郷」と呼んでよいのかはわからない)と自分と「ばあちゃん」の関係が、二本松、安達太良の春を背景に、淡く提示されている。ケアホームの庭でなく「ばあちゃんの庭」も描かれている。そこには水仙でなく「しばざくら」が咲いている。庭に咲くという点で水仙と重なるから、この「しばざくら」も「愛」の象徴なのだと読める。水仙のように「片寄る」とは表現されない種類の「愛」。「空き家」と「ケアホーム」も対比できる。増える空き家と、高齢者が集まるケアホーム。子はなくとも、血縁を前提とできそうな「ばあちゃん」という呼び名に呼ばれていたその人は今、しばざくらの咲く家ではなく、清潔なうつくしさを保ってはいるけれども「おびただしい」と表現されて群れ咲く水仙の白に塗り込められるようにして「ケアホーム」に暮らしているのかもしれない(現実にはもう亡くなっているのかもしれない)。それから、「(しってる?)(どこそれ?)」は、そのように認識されてしまう現状への批評だろう。そのような言葉のあとの「(いま何シーベルト?)」という問いは、たいへんに粗く、軽薄だ。その粗さは、その土地の現状が具体的にどうであるかにかかわらず、その土地に対する正確な把握・認識が行き渡っていないことそのものを伝え、それをしずかに読者に突きつける。粗い問い、把握されない現状は、やはりなんらかの「片寄り」によるものだ。のどかな「春の陽」「てらす」という語がむしろ痛々しく迫る。……とここまで読むと、「愛は片寄る」が、国や社会のありようにも向けられた批評にも思えてくる。片寄りを生じさせるものとしてのそれらが見えてくる。

 

「しばざくら」10首は、音やリズムの構成に配慮が利いてやわらかさがあり、一首と、一首から一首への流れがとてもスムーズに展開される連作である。その9首目にあって、「愛は片寄る」という結句は唐突で、連作の影をぐっと濃く変える。「愛」という言葉は抽象度が高く、また、それが「片寄る」と見るのも観念の側の発想だから、具体的な景に即したこの連作においてここで急に発せられると、誰が発した言葉なのか、その声の持ち主もはっきりしなくなる。声高な批評ではなく、淡々と真顔で提示された、シンプルでひろがりをもつ言葉。その、誰のものともわからない言葉は、「愛」とその「片寄り」についての読者の想像力を相当にかきたてると思う。連作のなかにおける「愛」の「片寄り」を超えて、読者それぞれに語りかけてくる。