平岡直子


あらくさにしんしん死んでゆける夏黄のフリスビーと毛深き地蜂

米川千嘉子『夏空の櫂』(砂子屋書房:1988年)
※引用は文中に引いた『一夏』とともに『現代短歌文庫 米川千嘉子歌集』(砂子屋書房:2011年)より


 

荒涼とした風景と、蜂についてのちょっと意外でグロテスクな描写にまず惹かれる。荒れた草地のなかに落ちているものを見つけてそこに死を感じとった光景だと仮定してみよう。その場合、フリスビーと蜂はともに飛ぶもので、それらが草のなかに落ちているのはたしかに死のイメージにつながる。しかし、この歌はあらくさが死を象徴するもので、フリスビーと蜂はその対比として生き生きと空中を飛び交うものだとも読める。そこをどう読むかは上句の取り方によっても変わるだろう。上句は、死んでいくのは夏自体なのか、「私が死んでゆくことができる夏」なのかが決定できない。一首をどの角度から読むかによってフリスビーと蜂に負わされる役割は正反対にもなるけれど、この歌の下句は歌意のブレによってみえ方が変わる印象がない。あくまで黄のフリスビーと毛深い蜂の存在感だけがあり、その生死はどっちでもいい、と、無表情にいるようにみえる。
その理由はフリスビーと蜂の非対称性にあると思う。「黄の」と荒く色を描写されるフリスビーと、もともとフリスビーよりかなり小さい上に「毛深い」ととても細かいところをみられる蜂は縮尺がちがう。人工物と自然のもの、という対比をみるにもこれらの修飾が軸をずらしてくる。共通項を持ちながら対称性を持たない二物は象徴的な役割をどうしてもはみ出してしまう。掲出歌の場合は四句目の字余りも相まって、歌よりも歌を構成する言葉が前に出ていると思う。蜂とついてしまう「黄」は、そこに無造作であることが逆に歌の方向性を定める作為を手放している証のようにすら感じられる。

 

〈女は大地〉かかる矜持のつまらなさ昼さくら湯はさやさやと澄み
いかなる愛も思慕と呼びたることなくてわれの日記は克明なりき
母なるゆゑいのちの重さ知るべきか母なるものは人も殺めむ
わが腹のかたきに触れてつぎつぎに少女らは白兎のやうな顔せり
チューバのなかに友棲むと吹く少年よ金管は巨大光となりて巻きしむ

三~五首目は第二歌集の『一夏』から。〈克明〉な意思が記された歌も多い。自分はその〈女〉ではないし、その〈母〉でもないし、この愛は〈思慕〉とは異なるもの。括られることへの拒絶がときにあまりに生々しくあらわれる米川千嘉子の歌は、わかりやすい意見表明を含まない歌のなかでも踏み込むこと、ラベルを貼ることを慎重に避け、言葉の内心を覗かない。「白兎のような顔」は少女の内面を説明するには不十分な喩えで、「たぶんハッピーな感じではないんだろうな」くらいしかわからないけれど、内面を経由しないからこそ「人が白兎のような顔をするときのあの心情」ではなく、「白兎」そのものを結句の「顔」に映しだすところがつよい。マニフェストのような歌と、詩的な火花の激しい歌が歌集中に混在することには一見落差をおぼえるけれど、表面をつよくなぞるような筆致という点でそれらは同質のものなのだと思う。だから読者は「フリスビー」に含まれる「ビー」にも気づかないふりをするしかない。「ビーがつくからこのフリスビーは実は蜂なのだ」などと決めつけるのは、「女は大地」だとか「母とはなべて命の重みを知っている存在」とかの言説と同じくらいに乱暴なことだから。

 

ひるがほいろの胸もつ少女おづおづと心とふおそろしきもの見せに来る/米川千嘉子