相槌を律義に打ちて馴(な)寄りくる生徒ありわれは何も与えず

棚木恒寿『天の腕』(ながらみ書房、2006年)
※( )内はルビ

 


 

『天の腕』には若い教員の立場からの歌が多く収められているのだが、僕は長らくそれらのうちのいくつかをうまく読めずに戸惑っていた。読みの焦点をどうにも定められずにいた。今回読み直してわかったのは、一首が構造上示す「内容の中心」と、僕が個人的に読んで「気持ちを引かれる部分」にずれがあったのが戸惑いの原因だったのだろうなということ。今日の一首は、結句で「生徒あり/われは」と、生徒と自分とを明確に対比した上で、親しく近寄ってくる生徒のその態度に気づきながらも、結句で能動的にきっぱり「何も与えず」と言ってのけるところにおそらく内容の中心がある。ただ、そこにことさら自省とか露悪とかを読み取るよりも、生徒とのあいだにあえて作る隔たりが冷静に歌に彫り込まれていること自体や、「何も与えず」に含まれ得る生徒とのさまざまな関係、生徒へのさまざまな心情に焦点を当てて読むのが適当だろうとは思う。とにかく、「われは」を経て現れる、一見すると冷え冷えとした結句「何も与えず」にこそ一首の中心はあるはず。しかし僕がこの歌をはじめて読んだときに驚いたのはその結句ではなく上の句で、生徒の心情がたやすくも見抜かれているところや、生徒の心のありようが「馴寄る」という語で簡潔に言い表され「すり寄ってくる」ようなイメージで描かれているところに、自分が十代だったころのぐらぐらとした心情を言い当てられたような気がして、ちょっと息苦しいような気持ちになったのだった。先生の顔色を見るというか、いい子でいようというか。つまり僕の戸惑いは、この歌が生徒の側の気持ちを生々しくとらえながらも、歌の構造が示すのは教員としての立場のほうであるという点にあったのだろう。生徒のありように心寄せをしつつ教員を読み取ろうとするからこそ生ずる混乱。この歌からは、ある生徒が成長過程でかかえている、その先の心理的な課題(という言い方はふさわしくないかもしれないが)まで見えてくる気がした。もちろんこれは僕の読み方であって、それを一般化するつもりはない。ただ、

 

傷つけてはならないという心にて四十ほどは箱詰めされつ
何の喩でもなき生徒を帰し教室の灯を消しぬ灯は退きてゆく

 

といった歌も、歌集中、今日の一首のすぐあとに置かれている。「傷つけてはならないという心」というふうに、生徒の側の防御の姿勢(それは虚勢を張ったような態度なのかもしれないし弱気でおどおどとした態度なのかもしれない。いろいろと想定できる)を敏感に察知しながら、「箱詰め」という教員・学校の側のありようを結句で印象づける歌にはやはり今日の一首と同じ印象をもつ。また、生徒を血の通わないモノとしてのみとらえたような断言「何の喩でもなき」の寒々しさ、そしてそれを「帰し」と言うことのわずかな冷たさに、それの背景として消えてゆく灯りが描かれているのはいかにもふさわしく、なんの感慨も湧かない感じやしらけたような感じ、あるいはそれほどの疲労がこの人のなかにひろがっているのかもしれないなといったことは想像できるけれども、灯を消しぬ灯は退きて「ゆく」、という描写が含むたっぷりとした時間は、灯りを妙に生々しく感じさせて、寒々しいとだけ言うのではなにか足りないという気もしてくる。

 

……とここまで読んで今日の一首に戻るのだが、これは教員としての自分に対する違和感なのかもしれないな、などと思う。生徒が、「自分」ではなく「教員としての自分」に対して寄ってくる。律義、というその丁寧さに、教員という立場・枠組みが見えてくる。自らが「教員」として扱われることへの違和感。その違和感というのはむしろ生徒の心の延長線上にあるものだろう。延長戦上にあるからこそ、生徒の心のありようを敏感に察知できる。「何も与えず」ということが、教員という枠組みを自らに与えないためのしぐさのようにも見えてくる。